どんな状況のときにも、100を超える意見があります。
どれが正しいではなくて、100を超える意見を「自由」が認めています。
自分と異なる意見を弾圧しようとする意見さえあると思います。
それすら「自由」が認めています。
ただ歴史は、そういう弾圧が何をもたらすか教訓を与え続けてきました。


教訓は「愛」です。


自由と愛を継承するのは人間の権利です。
愛からはずれているときは危機感とともに立ち位置を思い出さなければなりません。



人にでも状況にでも注意を向けるためには、自分自身が自分のそばに、そして人のそばに、状況のすぐそばにいなければなりません。そばにいる、つまりその場に存在すると、自分の予定表をもつことができなくなります。自分がこうするだろうとか、人がこうするだろうとか、状況がたぶんこうなっていくだろうとか仮定していれば、その瞬間に十二分な注意をはらうということができません。注意をはらうためには、心(マインド)がオープンであることが必要です。オープンな心、つまり判断もせず期待もしない心をもつことです。


もうひとつ重要なのは、ハートのほうもオープンにすることで、そのためには自分自身と他人とに対するあたたかい共感、そして過去のできごとへの寛大な宥しが必要です。オープンなハートをもつということは、相手に対等に接すること、共通の地盤を探すこと、そこでみつけられるかぎりの親密さと交流に対して自分を開いている、ということです。


愛の存在だけでなく、不在にも敏感であってほしいものです。不在を感じたら、耳を澄ませ、ハートをやわらげましょう。他人と分離している、と感じたら、微妙な判断や評価をしていないか探してみましょう。


分離や判断の経験は、すべて愛の存在に対して自分を開くための機会となります。知的な作業としては、固定観念や正当化から自分を遠ざけてください。感情面では、分離の結果、つまり自分の苦痛、他人の苦痛を感じてみてください。


判断から受容への移行、分離から同調への移行こそ、ヒーリングの真髄です。


”防御的”姿勢を”受容的”姿勢に変えることで、平和を実現することができ、また”排除的”な考えを”包含的”考えに変えることで、人間関係に調和をつくりだすことができます。


ヒーラーあるいは奇蹟を行う人になるということは、葛藤や争いから、また罪悪感から、判断や非難から、本来自由であれるはずの自分の能力を受けいれることです。


何度もくりかえすように、あなたがたにはできるのです。


どうか、あらゆる正統的なスピリチュアルな修行は、自分自身への愛と受容を養うことから始まるのを思い起こしてください。自分自身を愛することができないうちは、他人を愛そうとしないでください。それはできない相談です。


あなたのカンにさわることばかりしでかす人が人生に入ってきたら、その人を無理に愛そうとはしないでください。でも、衝突もしないでください。非難したり、あげつらったりして、敵視しないでください。ただ相手が自分のカンにさわっていることを認め、自分のフィーリングとともにいる時間をとってください。


あなたがひとりのとき、感じていることは、あなたの中だけの問題だということを改めて言っておきましょう。他人は、あなたの感情と関係ありません。自分の感じていることの責任を他人に押しつけるようなあらゆる考えを、切り離してください。


そして自分の感情とともにいて、自分自身に言うのです。「わたしのこの感情は、自分の中にあって自分が非難している面を示している。自分のあらゆる面を受けいれることを学びたい。わたしの中のすべての傷ついた部分に、愛をもたらすことを学びたい」


自分自身にたっぷりの同情をもってください。あなたが自分の批判的な考えや分離の感情を癒すたびに、宇宙の中のすべての心とハートがそれを感じます。あなたのヒーリングはあなただけではなく、全存在に及ぶのです。あなたに他人に対する責任があるとしたら、このことだけです。つまりあなたが自分のハートと心に平和をもたらすことです。


そんなアドバイスは利己的で無責任だと考える人がいるかもしれません。そういう人は、幸福を見いだすためには世界を救わねばならぬ、と信じています。その受けとめ方はまちがっています。自分がまず幸福感を見いださないかぎり、世界は救われません。理解しがたいかもしれませんが、これが真実です。


ですから、もしいま自分が幸福でないとしたら、未来に幸福を探そうとするのをやめ、自分の注意を現在の瞬間に向けてください。そこにこそ、あなたの幸福があるのですから。



質問者 至高なるものは意識しているのでしょうか?


マハラジ  私の経験では、それは意識してもいず、無意識でもない。


質問者 プラジニャーナム ブラフマ。このプラジニャーとは何でしょうか?


マハラジ  それは生命そのものの非――自意識的知識だ。


質問者 それは生命力、生命のエネルギー、生気なのでしょうか?


マハラジ  エネルギーがはじめに現れる。すべてはエネルギーが形を取ったものだからだ。意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。夢見においてはより少ない。眠りにおいてはさらに少ない。第四の状態では均質だ。それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる世界なのだ。


質問者 私は手を切ってしまったのですが、それは治りました。いったい何の力によって治ったのでしょう?


マハラジ  生命の力によってだ。


質問者 その力とは何なのでしょうか?


マハラジ  それは意識だ。すべては意識なのだ。


質問者 意識の源泉は何でしょうか?


マハラジ  意識そのものがすべての源なのだ。


質問者 意識なしに生命はありうるでしょうか?


マハラジ  いいや。生命なしには意識もありえない。それらはひとつだ。しかし実際には、究極なるものだけが存在する。それ以外は名前と形があるだけだ。あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。名前と形は実態のない空虚な殻にすぎず、実在は名前も形もない純粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静寂に浸り、平和の内に在ることだろう。


質問者 もし時間と空間がただの幻想で、あなたはそれらを超えているというのなら、今のニューヨークがどのような天気なのか言ってください。暑いですか、それとも雨ですか?


マハラジ  どうして私にそれが言えよう?そういったことには特別な訓練が必要だ。そうでなければ、ニューヨークに行くがいい。私が時間と空間を超越していることは確かかも知れないが、ある一定の時間と空間において、思いのままに自分の所在を選定することはできない。興味もなければ特別なヨーガのトレーニングをする理由もない。ニューヨークという名前を今耳にしたが、私にとってはただの言葉にすぎない。原子のひとつひとつがこの宇宙と同じほど複雑な宇宙かもしれない。そのすべてを私が知らねばならないかね?確かにできる、もし訓練するならば。


質問者 ニューヨークの天候について尋ねたことで、私はどこで間違いを犯したのでしょうか?


マハラジ  世界とマインドはともに存在の状態だ。至高なるものとは、ある状態ではない。それはすべての状態に遍在しているが、何かほかの状態ではない。至高なるものはまったく原因がなく、独立し、それ自身において完成している。時間も空間も、マインドも物質も超越したものなのだ。


質問者 何をもって至高なるものを認識するのでしょうか?


マハラジ  それが何の痕跡も残さないということが要点なのだ。何によっても認識することはできない。あらゆるしるしや手がかりの探求をあきらめることによって、直接に見られなければならない。すべての名前と形が放棄されたとき、実在が残る。あなたがそれを探す必要はない。複数制と多様性はただのマインドの戯れだ。実在はひとつだ。


質問者 もし実在が何の証拠も残さないのなら、それについて話すことさえできません。


マハラジ  それは在る。それを否定することはできない。それは深遠な、神秘を超えた神秘なのだ。だが、それは在る。それ以外のすべてはただ起こるだけだ。


質問者 それは未知なるものなのでしょうか?


マハラジ  未知も既知もともに超えている。しかし、私なら未知よりも既知と呼ぶだろう。なぜなら、いつであれ何かが知られたとき、知られたものは実在だからだ。


質問者 沈黙は実在の特質なのでしょうか?


マハラジ  それもまたマインドのものだ。すべての状態と条件はマインドに属する。


質問者 サマーディとは何でしょうか?


マハラジ  意識を使わないことがサマーディだ。ただマインドに触れないのだ。身体からもマインドからも何も求めないことだ。



今日をありがとうございました。
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