地球の自然法則に協力することは、生きていくためには不可欠です。しかしそのほかにも、この地上でのあなたの経験を形づくる、非物質的な心(マインド)の法則といったものがあります。


たとえば心の思考活動は、外界に目をやって、この世界のものごとにかかわりあうと促進されます。心が内側に向かい、自分を見ようとするとき、思考はスローダウンし、最後にはゆったり安らぎます。観察者と観察されるものはひとつになります。


自己観察の練習は強力です。それは自己と他者のあいだの障壁を打ち倒し、親密さのあらたな可能性をつくりだします。過去と未来が現在に場所をゆずり、永遠の「いま」にこそ、すべての創造的可能性が宿ります。


力(パワー)は可能性(潜勢力)として存在するものです。それが外に向かってあらわれるとすぐに、武力(フォース)としてまわりの抵抗を克服しようとします。それゆえ弱まってしまうのです。力は、信頼のうちに保たれ、外に表現されないでいるときに、もっとも強いものです。


行動するとき、あなたは一定の行動の道すじをとります。そのコースを変えることはむずかしくなります。特に、過去にある程度の実績があったりすると、変えられません。


ですから、行動する前にはまず頭の中で、こうしようという行動を状況に投げいれてみて、それにかかわる人々からのフィードバックを受けとってください。こうなればよいという期待を手放し、注意深く耳を澄ませるのです。そうすればエゴにもとづいた知覚以上のものを見ることができ、役に立つ情報を得られます。


概念に縛られている心は、こうすればこうなる、という直線的な結果をいちいちの行動について期待します。しかし、直線的な結果が出ることはまれです。力は抵抗に出あうとすぐ、道すじを変えます。上昇し、下降し、障害物の迂回につとめます。そしてしばしば、もとの軌道からそれてしまいます。


それにもかかわらず、あなたがたはこうすればこうなるという直線的結果を見こんだ計画しか立てません。だからこそ、しょっちゅう落胆失望するのです。


ほとんどの決断というものは誤ってなされるものですから、たいてい堂々めぐりになります。罪悪感によって、堂々めぐりになるのです。罪悪感は、すべての決断をたえまない疑いと解釈のし直しにさらすような磁場です。罪悪感はすべての行動をゼロにもどしてしまい、また同じような状況で、何度も何度も同じ選択をさせます。


罪悪感のない行動は、あなたが頭の中で自分を特定の状況に投げいれて、どうなるかを見守るときにのみ、起こすことができます。抵抗や障害物をも視野に入れた計画は、そうでないものよりもうまくいきます。


これは知的な作業プロセスのように聞こえるかもしれませんが、まったく違います。これはきわめて直感的なプロセスで、耳を澄ませるという真の技術を必要とします。導きを求めたのちに、行動を起こすのです。


思慮の浅い行動は、めったに効を奏しません。どちらかの極に偏れば失敗します。極端に反射的・本能的であるのもよくないし、慎重すぎて、その場での自由な発想が失われるのも困りものです。


友人のジェームズに何かを言うときはどんな気分になりますか、と、あなたにたずねたとします。ふたつの違った答えかたができます。まずジェームズのことを考え、過去の彼とのかかわりを思い返して、過去にもとづいて返答するやりかた。それからもうひとつは、腰をおろし、目を閉じて、ジェームズのことを考え、自分が彼に何か言うところを想像し、彼がどう反応するかを見ます。あとのやりかたのほうが、ずっとよい結果をもたらすでしょう。



あなたが人生で必要としている情報はすべて、かんたんな質問メソッドでいま現在、この瞬間に手に入れることができます。もちろんこのメソッドは、あなたが情報を中立的立場から求めるとき以外はうまくいきません。あなたの好き嫌いのバイアスがかかると、受けとる答えもゆがめられます。それを避けるためには、問いを向ける前に、真剣にこう宣言します。「わたしは自分の好みや偏見をわきにのけておいて、自由で真実な答えに心を開こう」


思考と行動は円環をなしていますから、いつでもあなたに教訓をもたらしてくれます。その教訓とは、あなたが求めるものや起きてほしいことがらと、人生に実際に何が起きているかに見えることとのあいだの落差を探求させるようなものです。


このジレンマから逃れようとしても、うまくいきません。ジレンマそのものが、学びに必要だからです。


ですから、外界の人や事物に注意を向けることはぜったいに必要です。ここは「条件つき」の世界です。世界は、あなたの望んでいるものをさしだしてはくれません。



世界はあなたが何を望んでいないかを、映し返してみせてくれます。


この世界に幸福を求めるのは、なまやさしい仕事ではありません。世界はあなたを幸福にすることはできません。それに気づくのが早ければ早いほど、あなたの苦労も軽くなります。


自分の経験を正直によく見てみれば、自分の時間のほとんどを、ある状況を避けるか、”抵抗する”ために使っているのがわかります。それを避けようとすればするほど、そういう状況が数多く起きてくるのは当然です。逃避と否定からは何も学べないからです。


目の前にある今の状況に立ちむかい、責任をとろうとするとき、初めてその状況に意味をもってかかわることができます。恐怖心に直面し、対決することが、プロセスの第一歩です。


あなたは自分がこの世界にいるのは、有意義でかっこうのよいことをあれこれ達成するためだと思っているでしょうが、それはあなたのエゴが人々に認められようとして叫んでいるにすぎません。あなたがここにいるのは、何かをなしとげるためではなく、自分や他人について抱いているまちがった観念や信念をゼロにもどすためです。


どうか、ちょっと時間をとって、あなたの立てた目標の数々をながめてみてください。世間的に何かをなしとげることにかかわる目標が、いくつあるでしょうか。ほとんどがそうかもしれません。しかし、それを恥じることはありません。あなたの注意が、ひたすら外界に向かっているということに気づいてください。そして気づいてほしいのです。仮に、それらの目標がぜんぶ達成されたとしても、あなたは幸福にならないだろうということに。


幸福はいま現在の瞬間にしかありません。
いまあなたが幸福であれば、それ以上に、なにか達成すべきことはありません。もしあなたが明日幸福になれるとか、五分後に幸福でいられるかとかに心をわずらわせれば、いま幸福になる、ということを忘れてしまいます。計画や願いごとのすべてが、あなたを現在の幸福から遠ざけてしまうのです。


友よ、あなたにたずねたいと思います。あなたは現在の幸福のために「重要な」目標群をよろこんで捨てようと思いますか。いまこの瞬間がどこへつながっていくかわからないけれども、それでもこの瞬間を完全にわがものとしたい、と言いきる勇気はありますか。


あなたの心や経験のなかの混沌や混乱はすべて、完全にいま現在にいて、現在にのみ注意を向けることで乗りこえられます。これこそ奇跡的な真実です。



あなたはあらゆる葛藤、苦闘、自己不信、自己を裁く気持ちなどから、自由になりたいですか。それなら、外的な目標のすべて、心配、心を占めていることを捨て去り、いまこの瞬間の自分にのみ気づきを向けなさい。


目覚めのプロセスには、華々しくてかっこうのよいところはありません。
世間にもてはやされる指導者は、ごくごく表面的なレベルのことを教える傾向があります。世間というものは、具体的に結果が出ることを評価しますが、スピリチュアルな業績は目に見えないものであることが多いからです。


心を制御することを覚えても、社会からは特に重んじられません。人間としてはもっともパワフルな存在になれるかもしれませんが、そういう人が権力の座についていることはありません。つまり、そうした地位が提供されても固辞するのです。


そういう人が向けてくる問いは、たったひとつです。
「あなたは、いま現在幸福か?」


もし、その答えが「イエス」であれば、もうすでにあなたは天国にいます。答えが「ノー」であれば、その人はあなたに端的にたずねます。
「なぜ、幸福になってはいけないのか」


あなたがいま自分が幸福でない理由を、三十ページの陳述書にまとめてみせたとしても、その人はもういっぺん、シンプルに「なぜ」ときくだけでしょう。遅かれ早かれ、あなたにもわかります。自分がいま現在幸福でない理由をあげても、相手の問いに答えたことにはならない、と。なぜなら、いま幸福になれるという選択肢があなたにはあるからです。過去にこだわっていることだけが、その選択を妨げているのです。


マスターといわれる人はみな「なぜ、そうなってはいけないのか?」とききます。何をし、何をすべきでないか、というようなことは言いません。なぜなら、したりしなかったりするということは、みなあなたの責任に属しているからです。



今日をありがとうございました。
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