聴くというのは、ほんとうに聴こうとしているということです。



もしも、思考に殺す力があるとしたら、あなたがたのうちの何人がいま生き残っているでしょうか。もう一度言います。あらゆる行為の種は、あなたがたの思考の中にあるのです。「あなたの考えはがまんならない」と思うと、すでに相手を攻撃しています。


思考として始まるものは、すぐに口をついて言葉となります。


言葉となったものは、すぐに行為となります。言葉によって、あなたの意見に賛同する人々が出てきたら、相手をたたいたり、殺したりしてもよいのだという気持ちになります。


社会はこう言います。「物理的な行為だけが非難されるべきだ。言葉での攻撃は不幸なことだが、避けられない。それに、人がある考えを抱いただけで、その責任をとるべきだと考えるのは愚かなことだ」


そしてあなたがたは殺人事件には憤激しますが、殺人という考えは受けいれられるわけです。あなたがたはみな、そういう考えを抱いたことがあります。レイプや性的虐待の行為には憤激しますが、そういうことを頭に描いただけではそれほど動揺しないでしょう。


自分の抱く考えすべて、そして他人に言ったり、したりしたことのすべては、自分が自分をどう思っているかの反映だということを忘れないでください。だれかにネガティブな考えを抱くということは、同時に自分自身をどう思っているかを示しています。


だれかについてたたくかげぐち、言葉での侮辱は、自分自身に恥ずべきところがあり、拒絶されていると感じていることを示しています。そしてだれかに実際に暴力をふるうということは、自分自身の自殺衝動のあらわれなのです。



これは神秘的なことでもなんでもありません。
傷ついている人だけが、他人になぐりかかります。


そして、わたしはたずねたいのですが、あなたがたのうちの何人が傷ついていないと言えるでしょうか。あなたがたのうちの何人が、ごく小さな形であれ、他人になぐりかかろうとしていないでしょうか。


レイプ犯、殺人犯とあなたとの違いは、あなたが思っているほど大きくはありません。わたしがこれを言うのは、あなたを落ちこませるためではありません。兄弟に対する責任に目覚めてもらいたいと思って言うのです。


復讐の考えを抱いた自分を宥すことができれば、復讐の行為をおこなう人を宥すことができないわけがありません。その人はあなたがすでに考えていたことを、行為に移したにすぎません。


わたしは、復讐の行為を正当化するつもりはありません。攻撃も正当化しませんし、あなたがたにも正当化してほしくありません。ただ、なぜその兄弟をあなたのハートから追い出してしまうのか、とたずねたいのです。その人は、おそらくあなたよりも愛と宥しに飢えていたのでしょう。それをけっして与えまいとするのですか。


その人は人生で深い傷を負っていたのです。あなたは、罪を犯した男の中にいる、この傷ついた少年に少しでも同情を感じませんか。


あなたが彼の立場だったとしたら、もっとましな生き方ができたのでしょうか。正直になってください、友よ。正直になれば、あわれみを覚えるでしょう。その犯罪者にではなくとも、その前身の少年に。


わたしはいま、はっきりと言います。ひきがねを引いてしまったのは、その男ではなく、少年です。それはすっかり押しつぶされてしまった、聖なる存在です。愛され、受けいれられていると感じられなかった少年です。攻撃に出たのは、その男ではなく、その傷ついた少年なのです。


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友よ、大人などというものはいません。少年だけです。その男の怒りに満ちたいやらしい顔に、あなたの視界をくもらされないでください。そのこわばった外見の下には、圧倒的な苦痛と自己批判があります。


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生き方を誤った大人の、いまわしい怒りの仮面の下には、自分が愛されるべきだとは信じられない少年がいます。


その少年を抱きしめられないなら、自分の中の少年あるいは少女をどうして抱きしめることができましょう。その子の恐れとあなたの恐れは、さほど違ったものではありません。


まず、自分が倫理的で立派な人間だという仮面をはずしてください。それから自分の中の少年少女に、その男の中の少年をながめさせます。そこから愛と受容が始まります。宥しはそこに根を張っています。


犯罪者はあなたがたの社会の中の、みんなが見ないふりをしているグループのひとつにすぎません。あなたがたは、その生活を見ようとしません。彼らの苦しみについては聞きたくもありません。自分の目の届かないところに押しやってしまいたいと思います。老人についても、精神病者についても、ホームレスについても、同じように感じます。


友よ、あなたは兄弟を愛するという責任をとりたくありません。でも彼を愛さなくては、自分自身を愛し、受けいれることはできません。
あなたの兄弟はあなたの救いの鍵です。


個人が自分の受けいれたくないネガティブな傾向を否定し、抑圧するように、社会もまた直面したくない問題を否定し、制度化してしまいます。個人の無意識も、集合的無意識も、口に出せない傷をいっぱいかかえています。その傷口に埋めこまれている、自分で意識しない苦痛、罪悪感、恐怖心が、個人をも社会をもそういう行動に駆り立てています。


宥しは、自分と社会の中にある、こうした暗黒の秘密の場所にサーチライトをあてていきます。宥しはあなた自身の罪悪感と恐怖心にむかって、「出てきて、姿を見せなさい。あなたを理解したいから」と言います。


傷を認めることは、いつでも癒しのプロセスの第一歩です。個人としても、社会という集合体としても、傷の背後にひそむ恐怖心に進んで直面するつもりがなければ、癒しのプロセスは始まりません。


どんな人でも、傷が意識化されるまでは、無意識的反応という牢獄の中に住んでいます。鉄格子の向こうにいるのは、犯罪者だけではありません。犯罪者をそこに追いやる人はだれでも、ちがった鉄格子の中に住んでいます。


あなたがたが進んで犯罪者にはたらきかけて、自分自身を愛し、受けいれるようにさせなければ、その人は同じ怒りや復讐心をもって、また社会に出ていきます。


刑務所の数を増やしたり、路上の警官を増やしたりしても、あなたの身のまわりが安全になるわけではありません。こうした行為は恐怖心のレベルをあげ、状況をさらに悪化させます。


状況を改善したいのであれば、刑務所やご近所に宥しのわざを持ちこむことです。教師やカウンセラー、ソーシャル・ワーカーの数を増やします。人々に食べ物を与え、感情的にも知的にも刺激を与えてください。安全な感情的結びつきの経験をさせてください。教育と訓練の機会を与えてください。希望を与えなさい。受容を与えなさい。愛を与えなさい。


「自己尊重」の画像検索結果
どうか忘れないでください。
人に与えているとき、あなたがたは自分自身にも与えています。


そろそろ自分自身のなかの罪人を、そして社会の中の犯罪者を罰するのをやめるときです。罰は拒絶感を強めるだけです。それは必要なことのまったく反対です。拒絶感をやわらげ、軽くするべきです。批判と攻撃を、意識の光の中にもちだしてください。罪悪感と恐怖心をあるがままに見るべきです。


この再生の行為は、統合の行為です。暗黒は光の中にさらされるべきです。


行為の種子は考えの中にありますから、そこに働きかけるべきです。考えを変えずに、行為を変えることはできません。


あなたがある種の考えをタブーにしていれば、それを見るのを恐れます。それは建設的ではありません。どうか自分の精神の中にある殺人の考えをよく見てください。そうすれば、無意識の中に埋めてしまう必要はありません。


まわりの人々が自分の思考に、そしてその思考の結果に責任をとれるよう、手を貸してください。内なる力と正しい自己尊重は、自分は何を考え、何を言い、どう行動すべきか、自由に選択できるのだと悟るところから始まります。


他人に打ちかかろうとする人は、自分には選択がないと感じています。


これが鍵です。自分に選択の余地があるのだと教えれば、その人は犯罪をおかさないでしょう。犯罪は自己処罰のひとつの形式であり、無意識の罪悪感につきうごかされて無意識に選択されたものです。犯罪者は、自分を罰そうとしているので罪を犯すのです。社会は彼を罰し、罪悪感を強めることで、その自己処罰をかなえてやります。


社会がこの悪循環から抜け出る唯一の道は、弾劾や処罰の儀式を捨て、癒しに向かうことです。苦しんでいる人すべてに、自分で自分を助けるよう手助けをします。そういう人が、自分の無価値感や罪悪感を意識にのぼらせ、認められるようにしてあげなさい。


あなたがたの社会のハンセン病患者の状況は、わたしの時代のそれとほとんど変わっていません。その人とたちは万人の傷を、みずからの皮膚にあらわしています。あなたがたが向きあおうとしない苦痛の、大胆な証人なのです。社会はかれらが道を示してくれていることに対して、感謝すべきです。かれらは全人類が行かねばならぬ癒しの道を指し示しています。



今日をありがとうございました。
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