私の見るかぎり、あなたの日常生活においては、自分の本当の姿を見つけるために、意識を内面に向けることよりも重要なことは何もありません。


それを見つけるための特別なスイッチがあるわけでもないのです。神のすばらしい点は、<切>というスイッチがないことです。そのパワーは、つねに一定の率で機能しています。


自分というものを描写しようとしても、自分が誰なのかを人は知りません。けれども意識の深いレベルでは、人は、自分が誰であり何であるのかを正確に知っています。今まだ眠っていてその知識が見えないだけなので、私たちはあなたをそっと眠りから覚まさせて、その知識がふたたび見えるようにしようとしているわけです。


体験そのもののなかに”神の本質”が含まれています。悟りとか、神を見つけるということの神秘は、まさにこの点にあります。


体験のなかに含まれているものに気づいてほしいのです。人がそれに気づくのを邪魔する些細なことが山ほど存在するので、注意してください。人を堂々めぐりさせるのは、じつにこうしたつまらない事柄です。「あれが欲しかったのに」。「もっと私に関心を払って」。「気持ちを傷つけられたわ」。こうした無意味なことが無数にあります。けれどもそれらの背後に隠れているのは、値段のつけようもないほどみごとな真珠であり、永遠に光り輝く”大いなる光”であり、尽きることのない慈悲であり、自分の”存在”のすばらしい神秘の実感なのです。


マハルシ 二元性と欲望の根本は外側へと向かう心です。


人は仕事を遂行する間、高次の力に自分自身を明け渡し、そのことを常に心に刻みこんで、けっして忘れてはなりません。そうするなら、いったいどうして得意になることができるでしょう? 彼は行為の結果に関心を持つべきでさえないのです。そうしたときにのみ、行為は非利己的となるのです。

(対話502)


異質な二つの文化がある場合、それぞれが、自分の文化の方が優れていると感じる傾向がつねにあります。優越感というのは、愛の存在をほとんど不可能にします。この二つの文化のあいだには、理解やコミュニケーションがほとんど存在しません。ということは、愛の心が生む叡智がそこにはないということです。<br />
ところが戦争のような極限状況にあっても、愛の心を動かすことはできます。なぜなら双方とも、基本的に同じ恐怖と混迷のなかにあるからです。そこに愛の生まれるチャンスがあります。相手も自分と同じ恐怖に直面しているのだとわかって、固定観念を捨て、心の理解を通しておたがいと向き合うチャンスが生まれます。


マハルシ 心を神に明け渡しなさい。神の化身が神から独立して存在することはできないのです。神のものは神に明け渡して、幸せでありなさい。


質問者 どうすればよいのでしょうか?


マハルシ 私たちはどのようにして心を知るでしょうか? その活動、つまり想念によってです。想念が起こるたびに、すべての想念は神の化身(神の現れ)なのだということを想い起こしなさい。これで十分です。
神から独立して存在できるものなどあるでしょうか?


ただ神の化身だけが存在し、神の化身がすべてを通して行為しているのです。なぜ私たち自身のことを心配するのでしょうか?

(対話600)



あらゆる瞬間にあなたのスピリットを通過しているこれらのすばらしい思考を、あなたが知らないのはなぜだろうか? それは、あなたがそれらを知ることを望んでこなかったからだ。あなたは社会意識のよどみの中で生きること、つまり着るものも、行動も、考えることも、家畜の群れのようにすることを選んできたのだ。受け容れてもらえるように、あなたはまわりに合わせることを選んできた。自分が生き延びられるようにするためだ。あなたが知りたがらなかった理由は、自分が至高の存在であり、神であり、永遠であり、すべてを知る者であるという思考を抱くことが、自分の家族や友人、宗教や国家の意に反することになるからだ。だから、あなたは自分の力を手放してしまったのだ。あなたは自分の至高の独立性を手放してしまった。自分のアイデンティティーも忘れ去ってしまった。あなたは自分の脳を閉ざしてしまったのだ。それをふたたび開く方法をあなたに教えることが、私がここにいる理由である。


永遠とも言えるほど長い間、人間が必死に探し求めてきた無限の神秘である、この「神」と呼ばれる宗教像は、いったい何なのだろうか? それは思考であり、思考が思考を受け取る力であり、思考を受け取ることによって、もとの思考が新たな思考になり、それ自身を拡大していくという力のことなのだ。それが神のすべてである。それは思考の総体、つまり至高の生命だ。そして、まさにあなたの存在の内面にこそ、完全に神になる力があるのだ。完全に、だ。もしあなたの脳のすべての部分が開いたなら、あなたはこの瞬間に永遠の果てまでいくことになる。すなわち、あなたは知られていることすべてを知ることになる。あなたは太陽の色、海の深み、風の力、そして地平線の上の星になるのだ。


あなたが神のすべてを知り、神のすべてになることを妨げているのは何だろうか? 「変質した自我」だ。なぜなら、変質した自我は、神そのものであるすべての思考の振動数を受け容れるのを拒絶することによって、神を切り離してしまうからだ。そうすれば、それ自身が傷つくことなく、安全に安心して生きていけるからである。変質した自我が「反キリスト」と呼ばれる理由はまさにここにある。なぜなら、変質した自我はあなたが神の息子であることを否定するからだ。それは、あなたがその思考を受け容れ、自分と「父」はひとつであり、同じものなのだと悟るのを許さない。自分は神聖なる存在であり、不滅の本質であり、永遠を創造する力、さらには死をも創造する力さえ持っているのだということを、あなたが悟るのを許さないのである。R


あらゆる経験は、たったひとつの目的のために起きています。その目的とは、あなたの気づきを拡大することです。意識的には、これこれが起きるだろうと確信していなかったかもしれませんが、起きてしまえば、ほとんどの場合、あなたはその事件を自分の信念にしたがって、「やっぱり」と解釈します。


他人の考えや行動を批判することによっては、生の喜びは経験できません。自分のハートの中の真実に従いつづけることによってのみ、喜びは経験できるのです。そしてこの真実は、けっして他人を拒絶せず、中に迎えいれます。


真実は、開かれたままの扉です。この扉を閉めることはできません。入らないことを選択できるだけです。別の方向から入ることもできます。でもこう言うことはできません。「入ろうとしたけれど、扉が閉まっていた」と。扉はあなたにも、ほかのだれに対しても、けっして閉ざされたことはありません。


恐怖心に満ちた思考に気づくことで、べつの道がひらけます。しかしどうか、ネガティブなもの、恐怖心に満ちた思考を、ポジティブなもの、愛の思考でおきかえようとがんばらないでください。それは葛藤をもたらすだけです。ただ、気づきだけをはたらかせます。自分の恐怖心に気づき、それを感じてみます。


そうして、それを十全に感じたら、ただこう言ってください。「わたしはいま、自分の恐怖心から抜け出す準備ができました。父よ、どうぞ力を貸したまえ」そして、自分の求めた助けがやってくるのをよろこんで受けいれてください。あなたの願いがしりぞけられることは決してないと、わたしは保証します。


もうひとつ提案しておきましょう。助けを求めるときには、自分の思考を変えてください、と願いなさい。ですから、こう確言します。「父よ、この状況に対する自分の心を変えたいと思います。どうか、この状況を恐怖心の目を通じてではなく、あなたがごらんになるように見させてください。自分自身とひとしく他の人に対する愛をもって、この状況を見させてください」


兄弟よ、これはめざましい効果のある祈りです。祈りの中にとどまりなさい。その力と平和の中にいなさい。すべての言葉、すべての動き、すべての行為の中に、神の答えを受けとりなさい。奇蹟は、よろこんで受けいれる準備ができて初めて体験できます。


奇蹟が目に入らなければ、なんにもなりません。奇蹟をハートに受けいれようと思うなら、それは自分の期待とはちがう形かもしれないということを理解しておいてください。あなたの人生における奇蹟の存在に心を開き、それがみずからをあらわすのを許してください。


そのときどきで、使える形を使ってください。先入観を捨てます。毎瞬があたらしい瞬間です。すべての状況が、あなたのちがう面をひきだそうとします。


あることをある特定のやりかたで言ったりしたりすることに固執すれば、時間に縛られることになります。そういう執着は、あなたを過去に縛りつけます。やってくる経験がたずねているのは、あなたが喜んで過去を手放すか、喜んで信頼に身をゆだねるか、喜んで時間の外に踏み出すかどうか、ということです。


あなたが形に執着しなければ、時間の外に踏み出すことはかんたんです。あなたはいま現在に焦点をあわせます。永遠のいまです。どんなことが起きようと、そのことに全身でかかわっていけます。


でも、あなたがたの中でどれほどの人が、経験のなかで完全に現在という瞬間にいるでしょう。たいていの人は、経験を評価したり、判断したり、アラ探しをしたり、こうあってほしいという色眼鏡で見たりという作業で手一杯です。つまり、あなたがたはにせのアイデンティティにしがみついています。現在を過去に合わせようとしています。Y



マハラジ 身体がある。身体の内側には観察者、外側には観察されている世界が存在するように見える。観察者と彼の観察、そして観察される世界は、ともに現れ、ともに消える。そのすべての彼方に虚空がある。その空こそがこれらすべてなのだ。


質問者 あなたの言われることはシンプルです。しかし、誰もが言えることではありません。あなたが、そしてあなただけがその三つとその彼方の空について語るのです。私が見るのはすべてを含む世界だけです。


マハラジ 「私は在る」も含まれるのだろうか?


質問者 「私は在る」さえも含まれます。「私は在る」はそこにあります。なぜなら世界がそこにあるからです。


マハラジ そして世界がそこにあるのは、「私は在る」がそこにあるからだ。


質問者 そうです。それはどちらにとっても言えることです。私はその二つを分けることも、超えることもできません。私が体験していないから、それが存在しないとは言えないように、私にはそれを体験しないかぎり、何かがあるとは言えないのです。あなたにそれほどの確証を持って語らせる体験とは何なのでしょうか?


マハラジ 私は時間、空間、原因を超えたあるがままの私自身を知っているのだ。あなたはほかのことに没頭していて、偶然知らないだけなのだ。


質問者 どうして私はそんなにも没頭してしまうのでしょうか?


マハラジ なぜならあなたは興味があるからだ。


質問者 何が私に興味をもたせるのでしょうか?


マハラジ 苦痛への恐れと快楽への欲望だ。快楽は苦痛の終焉であり、苦痛は快楽の終焉だ。それらは果てしない連続性の中で交代しているしているだけなのだ。あなたがそれを超えたあなた自身を見いだすまで、その悪循環を調べてみるがいい。


質問者 私には、彼方へと私を連れていくあなたの恩寵が必要なのではないでしょうか?


マハラジ あなたの内なる実在の恩寵は、永遠にあなたとともにある。あなたの恩寵を求めたそのこと自体がそのしるしなのだ。私の恩寵について思い煩うことはない。だが、言われたことをしなさい。恩寵への期待ではなく、為すことが真剣さを証明するのだ。


質問者 何に対して真剣になればいいのでしょうか?


マハラジ あなたの注意の領域を横切るすべてを調べなさい。修練とともにその領域は広がり、調査は深まっていく。やがてそれらは自発的で限界のないものとなるのだ。


質問者 あなたは真我の実現を修練の結果にしているのではありませんか? 修練は身体的な存在の限界のなかで作用します。それがどうして無限なるものに誕生を与えるというのでしょうか?


マハラジ もちろん、修練と智慧の間に因果的な関連はない。だが、智慧への障害は修練による影響を深く受けるのだ。


質問者 何が障害なのでしょう?


マハラジ 誤った観念と欲望がマインドと身体の気を消散させ、誤った行為へと導いていく。偽りの発見と放棄は、真実がマインドのなかに入ることを妨げるものを取り除くのだ。


質問者 「私は在る」と「世界はある」という二つのマインドの状態を区別することはできます。それらはともに現れ、ともに消え去るのです。人々は、「私は在る。なぜなら世界が在るからだ」と言い、あなたは「世界はある。なぜなら私が在るからだ」と言います。どちらが本当なのでしょうか?


マハラジ どちらも本当ではないのだ。その二つはひとつであり、同じ時間と空間の中にある状態だ。その彼方には永遠がある。


質問者 時間と永遠のつながりとは何でしょうか?


マハラジ 永遠は時間を知り、時間は永遠を知らない。すべての意識は時間のなかにあり、意識にとって永遠は無意識として現れる。それにもかかわらず、永遠なるものが意識を可能にするのだ。光は暗闇のなかで輝く。光の中で暗闇を見ることはできない。あるいは、ほかの言い方をすれば、果てしない光の大洋のなかで、暗く、限定され、対比によってしか知覚できない意識の雲が現れるのだ。これらは何か非常にシンプルでありながら、しかしまったく表現不可能なものを言葉で表現しようとする単なる試みにすぎない。


質問者 言葉は橋渡しの役目をするべきです。


マハラジ 言葉は実在ではなく、マインドの状態に言及するものだ。川、二つの岸、それに架かる橋、すべてはマインドのなかにある。言葉だけであなたをマインドの彼方へと連れていくことはできない。そこには途方もない真理への熱望か、またはグルへの絶対的な信頼がなければならない。私を信じなさい。そこには目的地もなければ、それへ到達する道もまたない。あなたが道であり目的地なのだ。あなた自身を除いて、到達するようなものは何もないのだ。あなたに必要なのは理解することだけだ。そして理解はマインドの開花なのだ。樹が絶えることはないが、開花や結実は季節とともにやってくる。季節は移り変わるが、樹は変わらない。あなたが樹なのだ。あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。そしてこれからも育てていくだろう。だが、あなたはそのまま残るのだ。あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなるだろうことでもない。ただ在ることなのだ。宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。


質問者 世界は愛の子供だとあなたは言われました。私が、世界は戦争、強制収容所、残酷な搾取に満ちていると知るとき、どうしてそれをわたし自身の創造として所有することができるでしょうか? いかに私が限定されていたとしても、私にはそんな残酷な世界をつくり出すことはできなかったでしょう。


マハラジ この残酷な世界が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。そうすれば、なぜそのように残酷に現れるのかを知るだろう。あなたの質問は完全に正当なものだ。しかし、それが誰にとっての世界なのかをあなたが知るまでは、それに答えることはできないのだ。あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなければならない。だから言っているのだ。あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。


質問者 どうして私が世界をつくったと言えるのでしょうか? 私はそれを知りもしないのです。


マハラジ あなたがあなた自身を知るとき、世界のなかであなたに知ることができないものは何ひとつなくなるのだ。あなた自身を身体と考えることで、あなたは世界を物質的なものの集合だと見なしてしまう。あなた自身を意識の中心として知るとき、世界はマインドの大海として現れる。実在の中のあるがままの自分自身を知るとき、あなたは世界をあなた自身として知るのだ。


質問者 あなたの言われることは非常にすばらしく聞こえます。しかし、私の質問に答えてはいません。どうして世界にはそれほどたくさんの不幸があるのでしょうか?


マハラジ もしあなたがただ観察者として超然として離れて在れば、苦しむことはないのだ。あなたは世界をショーとして見るだろう。実に、最高のショーだ。


質問者 何ということでしょう! このリーラ(神の戯れ)の理論は受け入れられません。苦しみはあまりにも深刻で、あまねく存在しているのです。不幸の悲惨な光景で楽しむなど何という倒錯でしょうか! 何という残酷な神をあなたは差し出すのでしょう!


マハラジ 不幸の原因は知覚する者と知覚されるものとの同一化にあるのだ。それから欲望が生まれ、欲望とともに盲目的行為、結果への無頓着が続くのだ。まわりを見まわしてみなさい。不幸は人間のつくり出したものだということを知るだろう。


質問者 もし人間が彼自身の不幸をつくり出しているのなら、私もあなたに賛成するでしょう。しかし、彼自身の愚行から他者まで苦しめるのです。夢見る人は個人的な悪夢のなかで、ほかでもない自分ひとりが苦しむだけです。しかし、他人の人生まで破壊するとは、いったいどんな類の夢でしょうか?


マハラジ 解説は数多く、矛盾しあっている。実在はシンプルだ。すべてはひとつなのだ。調和が永遠の法則であり、誰も苦しむように強いられてはいない。ただあなたが解説し、説明しようと試みるとき、言葉はあなたを失望させるのだ。


質問者 一度、マハートマ・ガンディーが、「真我は非暴力の法則(アヒンサー)に縛られてはいない。真我はその表現に、それを正すために苦しみを負わせる自由をもっている」と私に言ったのを覚えています。


マハラジ 二元性のレベルにおいてはそうかもしれない。だが、実在のなかには、それ自体は暗いが、すべてを輝かす源があるだけだ。知覚されないが、それは知覚を引き起こす原因であり、感じられないが、感覚をひき起こす原因だ。非存在でありながら、それは存在に感情を与える。それは動きの不動なる背景なのだ。ひとたびあなたがそこに在るなら、どこにいようと我が家のように感じることだろう。


質問者 もし私がそれであるのならば、私が生まれてきた原因は何なのでしょうか?


マハラジ 過去において満たされなかった欲望がエネルギーをふさぎ止め、それが個人として現れる。その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、個人は死ぬのだ。満たされなかった欲望は次の誕生のなかへと運ばれていく。身体との自己同一化は、つねに新しい欲望をつくりつづけ、その束縛の構造が明確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。解放をもたらすのは明晰性だ。なぜなら、その原因と結果が明確に理解されるまで、欲望を放棄することはできないからだ。それは死ぬ。そして永遠に死ぬのだ。だが、その記憶は残る。そしてそれらの欲望と恐れも。それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。実在は、それにはまったく関わらない。だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。


質問者 私の困難とはこれです。私に理解できるかぎりでは、すべての体験はそれ自体の現実なのです。それは体験されたものとしてそこにあります。私がそれを疑い、誰にそれが起こったのか、誰が観察者なのかを尋ねる瞬間、体験は過ぎ去り、私が調べることができることはみな、その記憶だけになってしまうのです。私には生きた現在の瞬間──今を調べることはできません。私の気づきは過去のものであり、現在のものではありません。私が気づいているとき、今のなかに本当は生きてはいず、ただ過去のなかだけにいるのです。現在の気づきというものが本当にあるのでしょうか?


マハラジ あなたが描写しているものは気づきなどではまったくない。それはただ体験について考えているだけだ。真の気づき(サンヴィド)とは、観照されている出来事についてまったく何をすることも試みない、純粋な観照の状態のことだ。あなたの思考と感情、言葉と行為もまた、出来事の一部分なのだ。あなたは明確な理解の完全な光のなかで、まったく関わりをもたないまま見守る。それがあなたに影響を与えないため、あなたは何が起こっているのかを正確に理解するのだ。それはよそよそしく冷淡な態度に見えるかもしれないが、本当はそうではないのだ。ひとたびあなたがそのなかに在れば、それがいかなる性質のものであっても、あなたはあなたの見るものを愛することを見いだすだろう。この無選択の愛が気づきの試金石なのだ。もしそれがそこになければ、あなたはある個人的な理由で興味をもつだけだ。


質問者 そこに苦痛と快楽があるかぎり、人は興味を持たざるをえません。


マハラジ 人が意識しているかぎり、そこに苦痛と快楽はあるだろう。意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。それらを超えていくには、意識を超えなければならない。意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超えることが可能なのだ。そのとき、あなたは突然意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入らない状態にいる。意識とはあなたに引っかかせようとする急激なかゆみなのだ。もちろん、意識から外へと出ることはできない。外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。だが、もし意識とは殻のなかのヒヨコを包む個人的で私的な熱のようなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期をもたらすだろう。


質問者 仏陀は、人生は苦しみだと言いました。


マハラジ 彼はすべての意識が苦痛に満ちたものだと意味していたのだ。それは明白だ。


質問者 では、死が解放をもたらすのでしょうか?


マハラジ 自分自身が生まれてきたと信じている人は、死を非常に恐れている。その反対に、自分自身を本当に知っている人にとって、死は幸福な出来事なのだ。


質問者 ヒンドゥー教の伝統は、苦しみは運命によってもたらされ、そして運命は相応するものなのだと言っています。洪水、地震、戦争、革命といった計り知れない自然の、あるいは人的災害を見てください。それぞれの人たちが思いもしなかった彼自身の罪によって苦しむということもできるのでしょうか? 何億もの苦しんでいる人々は皆、正当に罰せられるべき罪人だというのでしょうか?


マハラジ 人は自分自身の罪によってのみ苦しまなければならないのだろうか? 私たちは本当に分離しているのだろうか? この広大な生命の大洋のなかで、私たちは他者の罪によって苦しみ、また私たちの罪によって他者を苦しめる。もちろん、バランスの法則が最高位のものだ。そして最後には貸借の決済をすませる。しかし、生命が続くかぎり、私たちは深く互いに影響を与え合うのだ。


質問者 そうです。詩人はそれを「誰ひとり、孤島ではない」と言い表しました。


マハラジ すべての体験の背後には自己があり、その体験への興味があるのだ。それを欲望と呼ぶがいい。あるいは愛と呼ぶがいい。言葉は重要でない。


質問者 苦しみを望むことはできるのでしょうか? 私は故意に苦痛を求めることができるのでしょうか? 私は熟睡を期待して柔らかなベッドをつくり、悪夢に襲われて、寝返りを打ちながら夢のなかで叫んでいる人のようなものです。間違いなく、悪夢を生みだしたのは、愛ではありません。


マハラジ すべての苦しみは利己的な分離、孤立と貪欲によって起こるのだ。苦しみの原因が理解され、取り除かれたなら、苦しみはやむだろう。


質問者 私は私の不幸の原因を取り除くかもしれません。しかし、他者は苦しみの中に残されるのです。


マハラジ 苦しみを理解するには、苦痛と快楽を超えていかなければならない。あなた自身の欲望と恐れが理解することを妨げ、それゆえ他者を助けることも妨げているのだ。実際には、他者は存在しない。それゆえ、自分自身を助けることで、あなたはほかの皆をも助けるのだ。もし人類の不幸に真面目に取り組むのなら、あなたがもっている唯一の手段を完全なものにしなければならない。それがあなた自身なのだ。


質問者 あなたは私が世界の創造者、維持者、破壊者であり、遍在し、全知、全能だと言いつづけています。あなたの言うことに思いをめぐらしているとき、私は自分に尋ねるのです。「どうして私の世界には、こんなにも多くの悪が存在するのだろうか?」と。


マハラジ 悪は存在しない。苦しみは存在しないのだ。生きる喜びはすべてにまさるものだ。見なさい。いかにすべてのものたちが生命にしがみついているか、いかに存在をいとおしんでいるかを。


質問者 私のマインドのスクリーンのなかで、イメージが絶えることのない連鎖でつぎつぎと入れ代わっていきます。私に関して永久のものは何もないのです。


マハラジ あなた自身をもっとよく見てみなさい。スクリーンがそこにあるではないか。それは変わらないのだ。光は揺るぎなく輝いている。ただその間にあるフィルムだけが動きつづけ、画像の現れる原因を引き起こしているのだ。そのフィルムを運命(プラーラブダ)と呼んでもいい。


質問者 運命をつくり出すのは何でしょうか?


マハラジ 無知が避けることのできない原因なのだ。


質問者 何についての無知でしょうか?


マハラジ 根本的には、あなた自身についての無知だ。また、ものごとの真の本質、その原因と結果についてでもある。あなたは辺りを見回し、理解もせずにその現れを実在と見なしてしまう。あなたは世界とあなた自身を知っていると信じている。だが、「わたしは知っている」とあなたに言わせているのは、単にあなたの無知にすぎないのだ。知らないということを認めなさい。そしてまずそこからはじめなさい。
無知を終わらせること以上に、世界を助けられることは何もない。そうすれば、世界を助けるために何か特定のことをする必要はもうないのだ。行為をしようと無為であろうと、あなたの存在そのものが助けとなるのだ。


質問者 無知はどのようにして知られるのでしょうか? 無知を知るということは知識を必要条件としています。


マハラジ まったくそのとおりだ。「わたしは無知だ」と認めること自体が知識の現れなのだ。無知な人は、彼の無知に無知なのだ。あなたは無知が存在しないと言うことができる。なぜなら、それが見られた瞬間、それはもはやないからだ。それゆえ、それを無意識、あるいは盲目と呼んでもいいだろう。あなたの内側とまわりに見るすべては、あなたが知らず、理解しないことなのだ。あなたはあなたが知らず、理解しないことさえも知らないのだ。あなたが知らず、理解もしていないことを知ることは真の知識、謙虚なるハートの知識だ。


質問者 そうです。イエスは「幸いなるかな、心貧しきもの……」と言われました。


マハラジ  あなたの好きなように表現するがいい。事実は、知識とは無知でしかないということだ。あなたは知らないということを知っているのだ。


質問者 無知には終わりが来るのでしょうか?


マハラジ 知らないことの何が悪いというのかね? すべてを知る必要はない。必要なことだけを知ればそれで充分だ。あとは、あなたがどうすればいいのかを知らなくとも、それ自体が面倒を見る。重要なことは、あなたの無意識が意識に対抗しないこと、すべてのレベルでの統合があることだ。知ることは重要なことではないのだ。


質問者 あなたの言われることは、心理学的には正しいのですが、他者や世界を知るに至っては、わたしが知らないということを知っていることは、それほど助けにはなりません。


マハラジ ひとたびあなたが内的に統合されたなら、外的な知識は自然にやってくるだろう。人生におけるそれぞれの瞬間に、あなたは知るべきことを知るのだ。宇宙的マインドの大洋のなかには、全知識が包含されている。それはあなたの要求しだいなのだ。そのほとんどは、けっして知る必要もないものかもしれない。だが、どちらにせよ、すべてあなたのものなのだ。
知識がそうであるように、力においてもまたそうだ。
何であれ、あなたがする必要のあることは間違いなく起こる。神が宇宙を支配する仕事に従事していることは疑いない事実だ。だが、彼は助けを得ることを喜ぶ。もしそれが非利己的で、知的な人ならば、すべての宇宙の力が彼の指揮にしたがうだろう。


質問者 自然の盲目的な力でさえも従うのでしょうか?


マハラジ 盲目的な力というものはない。意識が力なのだ。為される必要のあることに気づいていなさい。そうすれば、それは為されるだろう。ただ油断なく、静かにしていなさい。ひとたびあなたが目的地に到着し、真の本性を知るならば、あなたの存在はすべてにとっての祝福となる。あなたは知らないかもしれない。世界もまた知らないだろう。だが、助けは広く行き渡るのだ。世界のなかには、すべての政治家や慈善家を合わせたより以上の善を為している人々がいる。彼らは意図ももたず、知ることもないまま、光と平和を放っている。他者が彼らの為した奇跡について話すと、彼らもまた驚きの念に打たれる。それにもかかわらず、何ひとつ彼らのものとして受け取らず、誇りももたず、名声を望むこともない。彼らには、ただ彼ら自身のために何かを欲望すること、他者を助ける喜びを求めることさえ不可能なのだ。神が善であると知るゆえに、彼らはただ平和の内に在るのだ。


心のすきまに 春の雨が降る
あなたの寝息が かすかに乱れる
どうにもできない さみしさは
ひとつになれない もどかしさ
千の誓いを 星に変えても
砂よりはかない夢
夜明けの光の中 消える月のように
まどろむ夢に 聞こえる声
羽を交わして飛ぶ あれは 比翼の鳥の声

ひとすじほどけた 髪をときながら
流れる時間を ひととき忘れて
言葉にならない いとしさは
あなたになれない やるせなさ
疑いもせず ねむるあなたに
伝えるすべもなくて
あなたの腕の中で 溶ける月のように
まどろむ夢に はばたく羽
せつなの空を飛ぶ あれは 比翼の鳥の羽

夜明けの夢に 聞こえる声
さめてはうたかたの あれは 比翼の鳥の声


02 2024/03 04
S M T W T F S
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HN:
Fiora & nobody