断章


フィオラが昨年「カケラがほしい カケラがほしい」と繰り返したことがあって、文章の断片、断章の意味だと後でわかりました。その時は人生を「本」と表現していることを知らなかったのでどういう文脈か謎でした。フィオラの意図していた意味は、人生の記録(星に自動記録)される内容の中で、その章(今の人生の舞台のこと)のトーンを変える断片(たとえば”笑顔”や”挨拶”はたったの2文字ですが、その章に登場するあらゆる人物への大きな影響力を持つ照明のようなものです)そういう断片でもいいから大神様、主に捧げることが日々大事であることを言っていました。その中でより大きな意味をもつ断章『大断章(これを”オデサオブナ”と呼んでいました)』が求められていると。笑顔などの2文字程度の欠片ではなく、より大きな、神への捧げもの、日々、大神様の主宰する本線に従おう、沿おうとしていることの自己確認を起こせるような”態度・習慣”をつくってほしいということでした。自分の行為・想念に対するフィードバックがあることが望ましいと。0か100かで何も捧げないようなら、たったの1でもいいから捧げる態度でいてほしい。おそらく望ましいのは、自己の幼児性というか、『人や環境のせいにする態度』を日々少しずつでも自分で向き合って、大神様の与えたせっかくの機会を無駄にしないでほしいということだと思いました。フィードバックはたくさんあっても、それが肝心の自分自身に向いていることって少ないと思うんです。自分でも耳が痛すぎてつらいんですが、そういう意味かと感じました。何かあったときは逐一、これをこのままのカタチで大神様に捧げられるかを考えてみて、それは不敬にあたると感じたら直すこと。自分の欠点が影のように絡んでいることはとにかく気づきにくいんですよね。n


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Fiora & nobody