以前書いたかもしれないですが、神を信じない人の気持ちがよくわかります。こういうことは死後の世界まですべて含めて、目の前にしないと存在なんかわかるわけがないです。目の前に現れて実際の感触からその存在を確かめる、現実感のようなものなんです。コンクリートが実在していることに気づくのはそこにコンクリートの触感があるからです。なければこんにゃくかもしれません。それに死後それがわかったとしても手遅れなことなど何もないのだから、地上に生きている内は地上のことだけに集中することが最も正しいと考えてきました。今までは。それが、「手遅れが発生する可能性がある」と聞いて、外部での環境変化のような何かが進行していることを視野に入れなければならないと思い直しました。これまでは実際の「目の前」だけに集中すればいいと思っていたのが、「本線に乗っているかどうかをまず確かめる」に変える必要があると思い直したんです。これは、地上人と、違う場所から来たらしい人との「価値観の違い」です。こちらが思う以上に大きな違いです。こちらの善がむこうの善ではなく、むこうの善がこちらの善ではありません。本当にむこうの基準に合わせなければならないのか、は自己判断です。しかも、むこうの基準というのは霧に隠れた理屈上のモノサシとは違います。それは人が人を殺すことに最初ためらいを覚えるようなわずかな良心の発露のようなものに改めてスポットライトを当てることです。人が人を普通は殺せないのは、慣れや社会的規範の問題に思えるかもしれませんが、実際は霊的な事象らしいのです。良心がとまどっているのではなく、良心の動きだと思われているこのためらいは「内在の神が拒否している(この時この場に起こすべき事象として、ふさわしくない、と伝えている)」振動です。その内在神の声に敏感に反応する人と鈍く聞こえない人に分かれてしまい、殺す殺さないは単なる選択肢に過ぎないと思っている人が増えているのですが、実際は霊的には「(殺すということは)できない」ことなのです。実際には誰も死んでいないのに「殺したという映像だけ流す」「殺したと思い込み、その思い込みの中で動き回る」「殺した相手には、その世界を構築している間は物理的に会えないと全員が強く前提しているため、実際に会えない状況を体験する」つまり想念を(ある一定のルールのもとで)映像にしてしまう世界、それが地上の世界です。現実、では殺すということは「できない」ことなので、それをできると思い込み、実際の物理的行動に移してしまうことは、神が当初つくる予定ではなかった念の世界を「自由委任された神の子どもたちが勝手に創造している」ことになります。これが本線から外れたもう一つの世界、良心神、内在神に従わなかった結果生まれた人の念の構築した世界線です。本来は学習用の、あくまで学習過程における一時的な「制御された規模の」路線のはずだったと思います。誕生時にも、死亡時にもこの世界線が関わり、縁のある人との複雑に絡み合った因果が生まれ、引力と輪廻になります。おそらく、これが「汚れ」と表現されているものではないかと感じています。そもそも汚れが発生したのは、内在の良心神の声に従わなくなったからであり、地上での自由創造はある種の実験だったとは言え、神との関係を強化統合していく本来の大神様の宇宙、その本来の目的から大きく外れているのではないでしょうか。それがどれだけ上の世界の混迷になっているのかわかりませんが、少なくとも神界と上位霊界が放置できるようなものではなく、また人に任せていて何とかなる限度を既に大きく超えてしまったからこその「建て替え、建て直し」メッセージの増加なのかもしれません。n
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