中国の地方都市 ホテルの建設現場にスラムがあり
その中に、一人のおじさんがいました。
奥さんとともに軽食屋をやりながら日銭を稼いで暮らしていましたが、スラム住民の追い出しが始まり、1000元と引き換えに立ち退かされてしまいます。
彼の言葉を羅列します。


「きっとここは客でいっぱいになるぞ! 後は待つだけだ」
(立ち退かされた後に道路脇に再度軽食屋を組み立て、お客さんゼロの日に叫んだ言葉。結局その後一人も客が来ないまま再度立ち退かされる)


「俺は昔は役人だったんだ。このへんの仕事も全部俺がやった。今じゃ何も持ってないが、全部俺がやったんだ」


「…自分が虫けらに感じる…」


「…実は俺がクビになったのは、『重婚』がバレたからなんだ…」
(このへんから『おっさん!?』というツッコミが私の心で連呼される)


「当時はまだ最初の妻と離婚していなかったんだ。…今も離婚はしていないけど…」


「子育てに協力しなかったからな…まだちょっと怒っているんだ…あいつは家に居座ったまま、電話するといつも怒っているんだ…」


かいがいしく軽食屋を手伝う奥さんだと思われた女性は一緒に逃げた愛人でした。年老いた彼女もすべてを諦めているのか、苦労が刻みこまれた顔で何も言わずおじさんについてきてくれています。
おじさんは、愛人とともに、奥さんと子供を放り出して30年前に逃げて放浪の旅に出ていたのでした。


「ちくしょう…俺も年だし、どうすりゃいいのか…」
「厳しいな…クソッ!」


そしておじさんは奥さんと子供の住む家に愛人の彼女を連れて帰ることを決断します。
奥さんは一時的滞在はさせますが、ずっと住むことは許してくれません。


愛人を連れて帰ってきたおじさんの姿に、奥さんは無視気味ですが、
おじさんは何を勘違いしたのか奥さんにつらく当たります。それを見て娘がブチギレます。


「勝手に帰ってきて、お母さんをいじめないで! 私たち兄弟はお母さんに育てられたけど、あんたに育てられた覚えはないわ!」
(母が激昂する娘を抱き止めるようにして制止します)


「俺にそんな態度をとるな! お前といると自分がこの世で一番の罪人のような気がする!」


「小さい頃、授業参観に一度でも来てくれた!? いつも来てくれたのはお母さんよ! あんたはその時何をしていたの!?」


「なんだと!? なんで俺がお前の面倒を見なきゃならねえんだ!! ここは俺の家だ! 文句があるなら出ていけ!!!」
(おじさんは突然、面倒を見てもらっている立場なのに、家は自分のものだと認識してしまったようでした)


「ここは私たちの家よ!! 嘘つき! 世界一の嘘つき!!」


その騒ぎからしばらくしておじさんは苛ついた様子でこう言いました。


「ここをまた出ていくことを計画している」


「…あいつらのせいだ…」


最後の言葉は「あいつらのせいだ」でした。私はこれを見ながら感じていました。
人の状況を取り巻く「言葉」は、その人の状況をこれ以上ないほど的確に示していること。
そもそも「世界一の嘘つき」はそれだけのことをやっていないと出てこない言葉です。
愛人さんは何も言わずについてきてくれていましたが、おじさんの言葉には彼女に対する感謝はほぼまったくと言っていいほど聞こえませんでした。おじさんは間違いなく苦しんでいましたが、少なくとも自分が発している言葉に無自覚でした。n1304


転生できないの?


いま問題となっているのは、やり残したことを転生して進化していこうとするこれまでどおりの「転生先」の消滅、大きな環境変化が危惧されていることです。地球が先細る環境変化は人類の想定内ですが、神が逆の決断を下す環境変化は想定外です。
地球上でいま人類がやっていることが


「(神界への寄与という視点から)なんの意味があるのか?」


問われてしまいました。それは人間の人間に対する悪事と、動物に対する悪事、環境に対する悪事の混合です。まずテロリストの悪事は酷すぎます。独裁政権とその軍、対抗する武装勢力の悪事も酷すぎます。動物に対する人類の悪事はそれを超えています。地球環境に対してはがん細胞よりも酷い作用をしています。金正恩だけではないです。そこら中に問題が山積しています。
批判をすべきとは思いません。いますぐハンドルを奪取し、コースを変える責任が大人全員にあります。崖に飛び込んでいく車や列車の中で、口喧嘩をしている時間がもうないかもしれないからです。最悪を想定するなら、批判で時間を潰すのは賢いとは言えません。これが西暦1900年ならトライする時間はあったと思います。でも今普及している技術と当時の技術を悉く比較してみれば、ここから先に100年の時間はないこと、それどころか50年以内には何らかの決着をつけないと人類は全滅しうることを冷静に見なければならないと思います。時間予想は正確ではありません。ですが、人類が全滅しうる事態に陥っていることは「事実」です。


最適な動きは、神に采配していただくことでトレースできるものだと私は信じています。なぜなら人の合理性よりも優れた情報を一括管理されているからです。n1142


宇宙は人一人に対し一つの可能性しか与えないほど非能率的ではありません。


偉大な知恵に満ちたこの宇宙において、特定の学習ないしカルマを完了させ、知恵を学ぼうと望む魂は実に多く、あなたのニーズに合致し、そして実際にあなたと出会える相手もたくさんいます。宇宙は人一人に対し一つの可能性しか与えないほど非能率的ではありません。しかしどのような場合でも、あなたが人生のこの時期における適切なパートナーに出会った時には、それと認めることができるものです。我々の視点からみれば、ある意味では、この時点においてこの惑星上に転生しているあらゆる人々があなたの『ソウルメイト』なのですが、あなたが人生にある大きな目的ないし使命を持って生まれてきている場合、特定の相手をパートナーとして持っている可能性は高いでしょう。そのようなパートナーの人生の使命は、あなたのそれと完全に編みあわされているのです。その意味で、二人はソウルメイトであるといえましょう。ソウルメイトは、エネルギーの振動やエネルギー交換のレベルや結びつきの深さや高い理想がぴったり合うという点から、たがいを認めあいます。またこの瞬間に、またこの先において、自分の本当の姿はどのようなもので、どこへ向かっているのかという点にも、それは反映されます。ひとたびレッスンを学びカルマを終えると、二人の関係はとりあえず静止状態に入るかもしれませんが、しかし人間関係には終りということはないのです。結ばれたきずなは永遠に残るからです。あるいは、その後もともに新しいレッスンを学ぶため、この人生を通していっしょに歩むことを選択する場合もあるでしょう。そうするかどうかはまったく各自の自由です。我々の視点からみれば、別れというものは存在しないのです。
(中略)
人間関係は物質世界を越えて存続し、一方が物質世界を去っても続きます。たがいが物質世界にいた時とあまりかわらないのです。これは神との関係についてもあてはまり、人間の恋愛関係は神聖なるものとの結びつきに最も近いでしょう。恋愛においては神聖なるものを相手の個人性の内に経験するからで、神との関係がどれほど甘美なものになりうるかという、いわばプロローグなのです。神との関係においては神と一つになる前にさまざまな一体化を経験することになりますが、人間どうしの恋愛はその最初のステップなのです。


マハルシ すべてのヴァーサナー(心の潜在的傾向)が根絶されないままに得られた体験は確固としたものではありません。ヴァーサナーを消滅させるためには努力をしなければなりません。

(対話172)


質問者 どうすれば自我の束縛を弱めることができるでしょうか?


マハルシ 新たなヴァーサナーを加えないことによってです。

(対話173)



人の魂は【輪廻】を通して【目には目を、歯には歯を】で、幸せな一生もあれば不幸せな一生もある
2018.10.17 Wednesday - 08:40 - by ○○公園


私の元には自分はこれだけ精神的に苦しんでいる。その自分の精神的な苦しみを取ってくれるのが神ではないか。そうした訴えをして来られて、私はにはどうすることも出来ませんと返すと、「罵詈雑言」を浴びせて来られる方があります。


ある悪党が私に言いましたが、神は苦しんでいる者を助けるのが神であり、それ以外のことはするな。そうした概念の方が多いのかも知れません。そこにあるのは、自分の苦しみだけを神と呼ばれる存在に訴えるです。


人々が考える神とは、いったいどういう存在か?


人々が持つ神の概念は、自分の苦しみ取る存在?


霊的世界は「精神世界」とも呼ばれ、霊的世界と精神世界は「紙一重」であり、うかつに霊的世界に足を踏み入れると自己の精神が狂わされるがあります。


スピリチュアルでは神は光だと吹聴されますが、全ての魂は「光の玉」でもあり、その肉体により強い「光の玉」を受けるだけの力が無ければ、より強い光を受けきれずに精神はズタズタにされて発狂などにも行きます。悪霊もまた「光の玉」ではあるのです。


そうした心の病とか精神の病は、神や霊能者で簡単に解決など出来ません。人と交わる娑婆世界を離れて田舎などに引き込み自然とか動物等にふれ合って自分の心を癒やすとか、心療内科や精神科の医師の手助けがないと、娑婆世界で人と人と交わっての治癒は難しいとなります。


私がこれまで出会った方の中には自分が霊から救世主だと言われ、誰がそうしたことを言ったのですかと問うと、猫人霊がそう言ったなどがありました。蛇霊や狐霊は知られていますが狸霊とか猫霊なども、貴方が救世主ですなどと言って来ます。確かに霊的なものがその人に関わったのですが、結果的には精神が破壊されてしまわれたなどがありました。そうした霊による幻聴とか幻視とかが起きて来るのです。そして、被害妄想にも発展するなのです。


私は人間であって神ではありませんし、別に霊能力者でもありません。私がその人に答えられるとしたならば、貴方の現在の苦しみは貴方の過去世の生き方に何等かの【原因】があったのであり、【カルマ(業)】の吹き出しですとしか言いようがないのです。


自己の【精神】が確立しているならば、霊が自分に何を言おうが、それが【道理の筋】に合っていなければ、おまえの言っていることはおかしいと、そんな霊の言葉などに聞く耳など無いと言えます。


私は霊が自分は〇〇大神とか名乗って来れば、その言うことをまず聞きますが、その内容がおかしいと思えばその【証拠】を要求します。時には、その霊に対して【一喝】します。そうすると、ほとんど逃げ去ります。本物ではないからです。


私は子供の頃に自分に臨んで来た旧約聖書の神と称する声が言ったことを、頭から信じているのではありません。その真偽を確かめているだけです。そこに【言葉の仕組み】を創った存在があることを知っただけです。


その学びの過程において霊界が起こす【奇跡】の数々を見て来ました。だからと言って、「奇跡」の現出でそれを創造神等と言っているのではありません。人には【魂】があり、その「魂」論に沿って話しているだけです。


大本教神諭予告、


【この神は心の立替、心の建て直しの神である】


イスラム法では、【目には目を、歯には歯を】


自分が行った行為は、同じ物が【自分に返って来るのが神の法】と説いてはいますが、それが魂の「輪廻転生」を通じて次の世に自分に現れて来るとは説いていません。しかし、仏教においては曹洞宗などに見られる【三時(過去・現在・未来)】の教えに、自分がこの世で為した現在の「カルマ」は未来に、過去の「カルマ」は現在の自分に現れると説いてはいます。


ただ、【カルマ】とはその人が為した行為そのものが、必ずしもそのままで現れるではありません。その形を変えて出て来る場合が多いのです。


個々の人が輪廻の中で積んできた【カルマ】。国家とか民族とか社会が積んで来た集団の【カルマ】も存在して来ます。自分だけが幸せであれば良いと言うものではありません。


私が2番目の師匠の元で修業していた当時、一人の女性と知り合いました。その女性は苦難の道を歩いておられました。その原因となったのは、50ccバイクに乗っていて一人の男性を轢き死なせたことから交通刑務所に入ったことと、自分を育てくれた親の膨大な借金問題等からです。もう両親は首つり自殺する寸前まで追い込まれておられたのです。当時の私はその女性と結婚してもいいと思っておりましたが、その借金額は私にはどうすることも出来ません。


ところが私の2番目の師匠が私にを言って来たのです。【おまえは女性と付き合っているな。その女性とは結婚してはいけない。この女性は前世において強姦されて殺されている。そのことを今の肉体は知らないが魂は知っていて、前世で自分を強姦して殺した男の魂をたまたま見つけたことで、今生でその時の仕返しをバイクを使ってしたでした。】です。その女性は私と結婚するには相応しくないと言って来たのです。


つまり、「目には目を、歯には歯を」をしたなのです。で、この交通事故そのものは過去世の精算であり、過去にその女性を殺した側も今回は自分が殺されたことで過去に殺した【カルマ】が消えたです。この女性の今生での交通事故による人を殺した罪は、その時点で「恨みのカルマ」は解消されました。霊界でその罪が問われることは二度とありません。


そして、この女性は私が出した言葉は、自分はこれまで多くの霊能者に助けてくださいと相談に行きました。どの神も助けるから大金を出せ。大金を出せないのであれば、その若い肉体を差し出せです。皆、蛇や狐の神。本当の神様など居ないと思っていました。だが、貴方の言葉に本当の神様が居ると解ったと言われます。私は驚いて、【私が言った言葉のどこに神様が居る?】と聞いたのです。すると、その女性は私が言った言葉そのもではなくて、私が出している言葉たる【音波】に本当の神を見たと言われたのです。


それは私が発した【言霊】に本当の神を見ただったのですが、当時の私はこの人は何を言っているのだろうと思っていました。その後に、私が見たのは【言霊の正体】でした。それは【蛇や狐の神】ではなかったのです。宇宙創造に関わった神達です。


私の言霊に本当の神を見た最初の女性で、この女性にはある事柄と引き換えに親が自殺するかも知れない途方もない親の借金、現在では2億円程度の借金が一気に片付いたのです。その女性は私に自分はどうなってもいいから親を助けたいと言ったので、これからのその方人生の犠牲と引き換えに、別の【代償】を出して親の親の借金を払ったなのです。それも「目には目を、歯には歯を」なのです。その手助けをしたのは、私の背後に居る神霊団だったと言えます。


その女性は私が出す言葉(音波)に神を見た。その神様の為に働きたいと言ったことに、私の背後神霊団が働いたのです。私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声が臨んでいました。その声は【そなたが本当は誰なのか。どの神にも解らないようなしておく。そなたも知らない。されど、そなたの背後にこの私が居ることが解った者は、この神が救う】。その女性は私の背後に居る神の存在が解ったからと言えます。その女性はその親の借金の代償の払いをする為に、私の前から去っていかれたなのです。


仏教でこの世に起きることに偶然性はなく、全て必然性と説くことの事例と言えます。全ての事柄に【因】があるなのです。


ただ、カルマとは全てが悪い【業】ではなくて、良い【業】もあり、過去世で自分が積んだ徳分(良いカルマ)は、この世で【幸福】と言う形で返って来るのです。どうしてあの人は幸せなのだろう?。過去世における【徳】があったりするのです。


この世は魂の修業場なので、地獄に落とされていた魂も、天国から更なる上の天国を目指す魂も、天国も地獄も定かにならないような魂も、そうした魂に教えをする為にお釈迦様とかイエスとか弘法大師の様な高級霊たる存在の魂も降りて来るなのです。


この世で何の悪行もせずに「幸福」な人は、過去世の徳分が出ている


この地球は【魂の刑務所】ともされますが、【天人の苗床】とも言われるように両面があります。それは「魂の修学の場、更生(甦)」の場なので、過去世に罪悪を犯して来た魂。悪からさらなる善を学ぶ為に来ている魂など様々であり、一概論で語ることなどは出来ないのです。


更に、魂の修学の場として高い世界から降りた魂には【試練・苦難】の波が押し寄せて来ます。この世の試練とか苦難は魂を磨かせる一環でもあるからです。特に神代と呼ばれた時代に悪を積んだ神的な魂には、恐ろしいほどの苦難が来ます。それに堪えることが元の天人の世界に戻る道筋でもあるからです。


キリスト教やイスラム教では一部の霊能力がある宗教家以外は「輪廻転生」などは言いません。仏教には「輪廻転生」の教えがあるとしても、某宗派は仏教でありながら公然と人は死ねば土に還るだけで死後の世界(霊界)など無いと公言しています。そしてこの宗派の信徒は、霊的なことを語る人達に対してオカルトだと攻撃しています。


キリスト教であれイスラム教であれ、霊的な世界を語る司祭達は何も見えない他の司祭達から阻害されたり迫害の攻撃を受けるであり、宗教を信仰したからと言って「天国門」が開くとはならないのです。


万物を創造した神の姿は見えないとしても、【正負の原則】たる「目には目、歯には歯を」たる【カルマ】がバランスを取っているのです。


天国とは、自分がこの世で何を為したかで行く階層が決まる


私の最初の師匠は豊受姫のお代でしたが、こんなことを私に言っていました。人の世の苦難はどんなに長くてもたかだか「50年程度」であり、その苦難を耐えて神様(この世に出ている神霊達)に成ったならば、500年程度は神社の神様で居られる。どちらが得かと言えば、神社に祭られる神様と成った方が得だです。


日本の仏教界においては、日本の神社に鎮まる神霊と言えども【輪廻転生】は避けきれないで、永遠の仏陀ではなくて高い神霊だけには【大菩薩】の称号を贈って来たわけです。神社で神様と呼ばれていても「輪廻転生」からは完全に逃げ切れてはいないなのです。


が、輪廻転生があるからこそ、私達の魂は何万年何十万年と在るのです


私が説いているのは、間もなく【輪廻転生】が終わるなのです


霊界は同じ「想念」の者ばかり集まって暮らす社会なので、多様な世界が存在し天国や地獄も構成されて行くのですが、その世界で自分だけが向上するのは難しい。言うなれば【ドングリの背比べ】状態で、この世に降りて来ることで異論な違いを知ることによって魂が向上する。それが【天人の苗床】と言われる由縁。


輪廻転生が終わると、その時の段階で霊界での地位が固定されるので、早くから【宣伝】がなされているのです。


自分の人生は不幸せだと、【神を恨んだり人を恨んだり】する人生とは、どれほど後ろ向きかとなるのです。今回はたまたま不幸せな人生が訪れたとして、人は恨んだり神を恨んだりする前に、全ての落ち度は自分の過去世に原因があったと、意識を【転換】することが大切だと言えます。


たまたま今生が不幸せだったからと言って、それで霊界に帰れば「地獄」ではないのです。各自の魂の【向上過程】においては、そうした人生もあるのです。特に最終過程ほど【苦難】の道があるのです。【卒業試験ほど難関】と言えます。


霊界の【目には目を、歯には歯を】は「正負の原則」のこと


悪しきことで得た幸福は、次の世で「不幸せ」となる


長い「輪廻転生」の旅においては、恵まれた「良い人生」の時もあれば、何でこんなひどい目に会うのか?。何もかも恨みたいような人生もあるのです。


大本教の出口なお開祖は神界での規則違反に問われて、大本教開祖となった最終の人生は屑拾いで生計を立てていた人生が一番ましな人生であったと言われるように、自分の過去の人生に何かがあって今の人生になっているのであって、人を恨んだり神を恨んだりする筋合いものではないのです。


どの霊能者でも【自殺だけは絶対にするな】と言うのは、たまたま「どん底人生」の時が来たからと言って、過去の良い人生の時に他に対する【徳】の放出をしなかったからであり、【カルマの解消】だと認識出来ていれば、それに堪えて打ち勝つことも出来るのです。


自分の【カルマ】を精算を終えた時、元の神の世界にと戻る


その道は決して楽な道ではない


神の存在を信じるとは、信じることでその苦難の道が少しは和らぐ


神は自分の苦難を取る「御利益神」と思うと、間違った道を進む



質問者 私はアメリカで生まれました。この一年間は、マディア・プラデーシュにあるアーシュラムに滞在し、ヨーガとそのさまざまな相を研究していました。偉大なシヴァーナンダ・サラスヴァティの弟子をグル(師)とする私たちの師は、モンギュルに滞在しています。私はシュリー・ラマナアシュラムにも滞在していました。ボンベイではゴエンカによって主催されているビルマ式の集中瞑想コースに参加しました。それにもかかわらず、私はいまだ平和を見いだしてはいません。自己制御と日々の規律には改善が見られますが、ただそれだけです。私には何が何によってひき起こされたのか正確には言えません。多くの聖地も訪れてきました。それらはどのように私に影響を与えてきたのかは、私には言えません。


マハラジ 遅かれ早かれ、良い結果が現れるだろう。シュリー・ラマナアシュラムでは何か指導を受けたのだろうか?


質問者 ええ。あるイギリス人が教えてくれました。それから、そこに定住しているジニャーナ・ヨーガを修めるインド人もまたレッスンをしてくれました。


マハラジ あなたの予定は?


質問者 ビザの関係で、アメリカに戻らなければなりません。理学士の学位を取得して自然治癒法を研究し、それを職業にしようと思っています。


マハラジ 間違いなく良い職業だ。


質問者 たとえいかに犠牲を払っても、ヨーガの道を追求していこうとすることに、何らかの危険があるでしょうか?


マハラジ 家が火事で燃えているとき、マッチ棒が危険だろうか? 実在を探求することは、すべての仕事のなかでもっとも危険なものだ。なぜなら、それはあなたの住んでいる世界を破壊するからだ。しかし、もしあなたの動機が真理と生命への愛であるならば、恐れる必要はない。


質問者 私は自分自身のマインドを恐れています。それはとても不安定なのです!


マハラジ あなたのマインドの鏡のなかで、イメージが現れては消えていく。鏡はそのままだ。すべての相違は現れのなかにだけあり、実際はひとつなのだと悟るまで、可動のものから不動のものを、変化するもののなかから不変のものを識別することを学びなさい。神、ブラフマン、母体(プラクリティ)、名前はともかく、この基本的なアイデンティティだけが、すべてはひとつだという真我の実現なのだ。ひとたびあなたが直接体験から生まれた確信とともに「私は世界であり、世界は私自身だ」と言うことができたとき、一方であなたは欲望と恐れから自由であり、もう一方では世界に対する完全な責任があるのだ。人類の愚かな悲しみはあなたの唯一の関心事となるのだ。


質問者 それでは、ジニャーニ(賢者)にさえも問題はあるのですね!


マハラジ そうだ。だが、それはもはや彼の創造したものではない。彼の悲しみは罪の感覚によって毒されたものではないのだ。ほかの人たちのために苦しむことは何も間違ったことではない。あなたがたのキリスト教はこのことを根底に置いているのだ。


質問者 すべての苦しみは自己による創造物なのではありませんか?


マハラジ そのとおりだ。苦しみをつくり出す分離した自己がそこにあるかぎりは。究極的に、そこには罪も、犯罪も、報復もなく、ただ生命の果てしない変容があるだけだとあなたは知るのだ。個人的な「私」が消え去るとき、個人的苦しみも消え去る。大いなる慈悲の悲哀と不必要な苦痛は残るのだ。


質問者 ものごとの成り立ちのなかに何か不必要なものがあるのでしょうか?


マハラジ 必要なものは何もない。不可避なものも何もない。習慣と情熱は盲目にし、惑わせる。慈悲心による気づきが癒し、救いをもたらすのだ。私たちにできることは何もない。私たちにできることは、その本性にしたがってものごとが起こるにまかせるだけだ。


質問者 あなたは完全な受動性を指示されるのでしょうか?


マハラジ 明晰性と慈愛が行為なのだ。愛がたゆむことはない、明晰性が導いていく。あなたが行為について心配する必要はない。マインドとハートの面倒を見るがいい。愚かさと利己主義が唯一の悪なのだ。


質問者 神の名の復唱と瞑想、どちらがより良いのでしょうか?


マハラジ 復唱はあなたの呼吸を安定させる。深く静かな呼吸によって、生命力が改善される。それが脳に影響を与え、マインドの浄化を助け、瞑想にふさわしくするのだ。生命力なしには何もなされない。それゆえ、生命力の維持と増強が重要となるのだ。姿勢と呼吸はヨーガの一部だ。なぜなら、身体は良い健康状態で制御されていなければならないからだ。だが、身体への過度な集中も本来の目的にそむいてしまう。なぜなら、はじめのうちはマインドが第一とされるからだ。マインドがやすらぎ、内なる空間(チダカーシュ)を乱さないとき、身体は新たな意味を得、変容は必要となり、また可能ともなるのだ。


質問者 私はインド中を巡り、多くのグルと出会い、いくつかのヨーガを少しずつ学んできました。このようにすべてからすこしずつ味わうことはいいことでしょうか?


マハラジ いいや。これはただの前置きにすぎない。あなたはあなたの道を見いだす助けをさし出す人に出会うだろう。


質問者 私は自分で選んだグルは真のグルではありえないのではないのかと感じています。真の師であるなら、彼は予期できず、抵抗できない形で現れるはずです。


マハラジ 期待しないことが最善だ。あなたの反応の仕方が決定するのだ。


質問者 私は自分の反応のマスターなのでしょうか?


マハラジ 今、識別し無執着であれば、適切な時期にその実を結ぶだろう。もし根元が健康で水のやり具合も良ければ、果実はかならず甘いものとなるだろう。純粋で、目覚め、準備を整えておきなさい。


質問者 苦行や禁欲主義は役に立つのでしょうか?


マハラジ 人生のあらゆる浮き沈みにであうことは充分な苦行だ。苦難を発明する必要などない。何であれ、人生がもたらすものを明るく受け入れていくことが、あなたに必要な苦行のすべてだ。


質問者 犠牲に関してはどうでしょうか?


マハラジ 誰であれ必要とする人に、進んで喜んで分け与えなさい。自分自身に残酷な試練を与えたりしてはならない。


質問者 明け渡しとは何でしょうか?


マハラジ 来るものを受け入れなさい。


質問者 私は自分の足で立つには弱すぎると感じています。私にはグルと善き人びととの聖なる交友が必要だと感じるのです。マインドの平静は私にとって手の届かないものです。ものごとを起こるがままに受け入れることは私をおびえさせます。アメリカに帰ることを考えるとぞっとするのです。


マハラジ 帰りなさい。そしてあなたに与えられた機会に最善を尽くしなさい。理学士の学位をまず取得しなさい。あなたは自然療法の研究のためにいつでもインドに戻ることができる。


質問者 アメリカでのチャンスについてはよくわかっています。私をおびえさせるのは孤独なのです。


マハラジ あなたには、いつもあなた自身の自己という仲間がいる。孤独を感じる必要はない。それから離れれば、インドにいたとしても孤独を感じるだろう。すべての幸福は自己を喜ばすことから来るのだ。自己を満足させなさい。アメリカに戻ったら、あなたのハートのなかの荘厳なる実在に値しないようなことは何もしてはならない。そうすれば、あなたは幸せだろう。そして幸せでありつづけるだろう。だが、自己を見いださなければならない。そして見いだした後、それとともにとどまるのだ。


質問者 完全に独りであることは何かの助けになるでしょうか?


マハラジ それはあなたの気質にかかっている。あなたはほかの者たちとともに、そしてほかの者たちのために、注意深く友好的に働くかもしれない。そしてあなたを愚鈍にし、マインドの果てしないおしゃべりに翻弄させてしまう孤独のなかよりもより完全に成長するかもしれない。努力によって変化をもたらすことができるなどと想像してはいけない。暴力は、たとえ自分自身に向けられたものでも、苦行や禁欲主義のように実を結ばないものなのだ。


質問者 誰が実現し、誰がしていないのかを見分ける方法はないのでしょうか?


マハラジ 唯一の証明はあなたのなかにある。もしあなたが黄金に変身すれば、それは賢者の石に触れたことのしるしなのだ。その人と一緒にいて、何が起こるかを見てみることだ。ほかの者たちに尋ねてはならない。彼らの師があなたのグルであるとはかぎらない。グルは本質において普遍的かもしれないが、表現においては異なるのだ。彼は自分のアーシュラムのことを心配していたり、貪欲だったり、怒っていたりするように見えるかもしれない。一方、ほかの教師たちは違うかもしれない。


質問者 内面と外面の両方での完璧さを期待するべきではないのでしょうか?


マハラジ 内面においては、そのとおりだ。しかし、外面の完璧さは環境、体の状態、個人的、社会的状態など、無数の要因によるのだ。


質問者 私はジニャーニを探しだすように、そうすれば自己知識を達成する技を彼から学べるだろうと言われました。そして今、その取り組み方自体が間違ったものであり、ジニャーニを認めることはできず、ジニャーナ(自己知識)を適切な方法で獲得することもできないと言われたのです。まったく訳がわかりません!


マハラジ それは実在に関するまったくの誤解によるものだ。あなたのマインドは価値評価することや獲得することに没頭している。そして獲得不可能なものがあなたの認識を永遠に待っていることを認めることはないだろう。あなたが為すべきことは、すべての記憶と期待を放棄することだけだ。ただ、完全に無防備な無の状態のなかで待つがいい。


質問者 誰が放棄をするのでしょうか?


マハラジ 神がするだろう。ただ、放棄される必要があることを見なさい。抵抗してはいけない。あなた自身だと思いこんでいる個人にしがみついてはいけない。あなたがあなた自身を個人だと想像するために、賢者もまたより知識があり、より能力があり、どこか普通とは違う個人だろうと思ってしまうのだ。彼は永遠に意識的で幸福だとあなたは言うかもしれない。だが、それも全体としての真理からは遠くかけ離れたものなのだ。定義や描写を信頼してはいけない。それらはひどく誤った印象を与えてしまうのだ。


質問者 どうすればいいのか、どのようにするのかを言ってもらわないかぎり、迷ってしまいます。


マハラジ ならば迷うがいい。あなたが有能で自信があると感じているかぎり、実在はあなたの手の届かないところにあるのだ。あなたが内なる冒険をひとつの生き方として受け入れないかぎり、発見はあなたに訪れないだろう。


質問者 何の発見でしょうか?


マハラジ あなたの存在の中心の発見だ。それはすべての方向、すべての手段と結果から自由なものだ。


質問者 「すべてに成れ、すべてを知れ、すべてを持て」でしょうか?


マハラジ 「何にもなるな、何も知るな、何も持つな」だ。これが唯一生きる価値のある生き方、唯一手にする価値のある幸福なのだ。


質問者 目的が私の理解を超えたものだということは認めましょう。少なくとも道を示してもらえませんか。


マハラジ あなた自身で道を見いださなければならないのだ。あなた自身で見いださないかぎり、それはあなた自身の道ではないだろう。そして、それはどこへもあなたを導きはしないだろう。誠実にあなたの見いだした真理を生きなさい。理解したわずかなことにしたがって行動しなさい。あなたを導くのはほかの誰かの賢さではなく、あなた自身の誠実さなのだ。


質問者 私は過ちを犯すことを恐れるのです。とても多くのことを試みてきましたが、何にもなりませんでした。


マハラジ あなたはほんのわずかしかあなた自身を捧げていない。単に興味があるだけで、誠実ではないのだ。


質問者 それ以上良い在り方を知らないのです。


マハラジ 少なくともそれくらいは、あなたも知っている。それが表面的であることを知り、あなたの体験に価値を与えることはやめなさい。体験が過ぎしだい忘れなさい。清らかな無我の人生を生きなさい。ただ、それだけだ。


質問者 倫理がそんなに重要でしょうか?


マハラジ 騙してはいけない。傷つけてはいけない──それは重要なことではないかね。何よりも、あなたには内面と外面の調和を要する内なる平和が必要なのだ。あなたの信じることをしなさい。そしてあなたのすることを信じなさい。それ以外のすべては時間とエネルギーの浪費なのだ。


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