実際は望遠鏡の部品一つ一つまで精巧に組み立てているのは自分


視座、視野、視覚はその人が自分で作り上げたものです。この世界がどう見えるかを強制した他人や環境はなく、実際は生まれた時からその人が独自のフィードバックを通して一つ一つの部品を組み立て、世界を見るための望遠鏡ないしは顕微鏡を構築しました。自己定義は望遠鏡の芯のようなもので、マハルシやマハラジが全力で止めようとしているのは己を「肉体」だと見なすことです。これがすべての事件におけるたった一人の犯人であるとしました。本当はあなたは肉体ではないのに、ただの肉体であると思っているから「ややこしく」なるというわけです。分子、原子、電子、核子、陽子、中性子、クォーク、ほんとうは振動する光に近い実態が、読めません。肉体が蜂の巣になったとき「自分」も死ぬ対象だと思い込んでいます。日常生活においてこの「限定視」が人を縛る鎖です。可能性の塊が、可能性を限定されていると思い込んだことで、その思い込みのレールから外れることをしなくなります。期待もしなくなるので、自分が誰であるかも忘れます。望遠鏡を組み立てたのが自分であるのだから、その分解ができるのも自分だけです。しかも自分のペースで一つ一つ分解しなくてはなりません。他の誰も部品の配置に口を出していないので、それを解除できるのも自分だけです。どこまで行けるか、を決めているのが自分だけであることを自覚することは、たったの一歩ですが、致命的に重要な一歩なんです。n


大神様に意識を向けないで放った言葉の数々は誰の口から出ても


ただの影のようなものばかりです。それが上司であっても、お偉いさんであっても、中学生であっても、同じです。なぜなら彼は、見ているものの周波数帯を言葉に出しているからです。その言葉を受けた側が見ているものも、言葉の裏の奥の、彼(投げ手)の本性の愛されるべき光を浮き彫りにできるものでない限り、大神様の意向には沿っていないのです。ピッチャーの、そしてキャッチャーの周波数帯はそれぞれの視線の先にあります。ほんとうに優れたキャッチャーであるなら、暴投を繰り返すピッチャーを冷たくは見ていないはずなのです。n


ティーンエイジャーは、車や金をもちだして、好き勝手なことをするかもしれませんが、いつかはその車を使って家に帰ってくることを親は望んでいます。神も同じ気持ちです。神は、人間が神のもとを離れ、ティーンエイジャーのように好きなことをして、遊びまわるままにさせています。しかし、人間もいつかは寂しくなって「家」に帰りたくなるだろう、と神は期待しています。B


マハルシ 何の修練をしているのですか?


質問者 視点を固定させる修練です。


マハルシ いったい何のために?


(略)


質問者 心に働きかけるには何をすればよいのでしょうか?


マハルシ 神を想うことです。もちろん。


(略)


マハルシ 何かを自然なものにする試みでないのなら、何を修練と言うのでしょう?


(略)


質問者 シュリー・クリシュナとシュリー・ラーマに代わるがわる黙想してもよろしいでしょうか?


マハルシ 姿を想い描く瞑想は分離を暗示しているのです。

(対話528)


マハルシ あなたは存在します。それは事実です。ディヤーナはあなたによって、あなたに対して、あなたの内で為されます。それはあなたの在る場で続いていかなければならないのです。それはあなたの外側ではできません。それゆえ、あなたがディヤーナの中心なのです。それがハートです。


ハートとは概念でもなければ瞑想のための対象でもありません。それは瞑想の座なのです。

(対話403)


感謝とは、神の愛をあらゆるものに見るという選択です。この選択をしたら、どうしたってみじめにはなりようがありません。


ふたつの世界があるように見えるでしょうが、実際はひとつだけです。恐怖心は愛の不在にすぎません。欠乏は豊かさの不在にすぎません。不平不満は感謝の不在にすぎません。


神は努力のなかにあり、そして神は努力をしないことのなかにあります。求めることのなかにあり、見つけることのなかにもあります。


人間を連れ戻すために、神はあらゆることを利用します。


悲しみや喜びを超えた何かがあって、それが悲しみや喜びに意味を与えるのだということを発見します。



自分以外の人間や、まわりで起こっている出来事を見るときに、自分は”神の大いなる光”のなかにいるのだ、ということを忘れないでください。あらゆるものの本質は愛です。そのことを忘れないようにつねに努力するならば、そうした覚醒意識を得るのを妨げているものが少しずつ明らかになってきて、やがて消えていきます。このことを忘れないでいると、”大いなる光”以外のものはどれでも一時的なものであり、生まれては消え、やってきては去っていく、つかのまのはかない障害物にすぎないのだ、ということがわかってきます。不断に変化する考えや信念などというカムフラージュの陰にある、実在するものにつねに意識を向けてください。


人は、自分とは肉体のことだと思っています。人はまた、カルマや輪廻転生があると深く信じているので、過去をなかなか捨てられないし、”大いなる光”が”大いなる光”に出会っているのだ、ということに気づけません。


”大いなる光”が”大いなる光”に出会うと、その結果、よりパワフルな”大いなる光”が生まれます。どんな方法を用いてでも、あらゆるものは神なのだということを覚えていられるならば、自分の悩みの本質がはっきり見えてきます。B


「父」が持っているただひとつの計画は、あらゆるものが「父」そのものである生命を表現できるように、ただ在ることだ。もし「父」に計画というようなものがあったとしたら、それはあなたの内面の神を表現する自由を奪ってしまうことだろう。そしてそれは、あなたの独自性を奪い、自分自身を進化させることによって神と呼ばれる生命原理を拡大する能力まで奪ってしまうことだろう。


単純な科学だ。思考はただ在る。それから、光が見える。次に、光が下げられて電気的な信号となる。電気的な信号はさらに下げられ、下げられ、下げられて物質となる。
そして…


その物質が下げられて、思考でできたその理想像を表すものとなるのだ。R


すべてのものは、まず速度というものをまったく持たないもの、つまり思考をもとにして、それを速度のあるもの、つまり光へと拡大し、その光を減速することによって創造されたのだ。


思考(静止)→光(速度)→電気→物質→形体←思考(記録装置である魂に保持された感情的な像・感情で描かれている設計図)


あなたがある思考について熟考し、感情的にこれを抱くときには、つねにその思考は光の振動数へと拡大していく。光の粒子の動きを遅くして、それを凝縮すると、エレクトラム、つまりあなた方が電気と呼んでいる、プラスとマイナスの極を持つ電磁場が創造される。思考をエレクトラムよりもさらに減速し、凝縮すると、エレクトラムは物質へと固まるのだ。そして物質は、形体と呼ばれる分子構造、細胞構造へと固まっていく。そしてこの形体は、創造のための理想像として魂が思い描いていた思考によって、ひとつの形に保たれているのである。


神が数々の宇宙を創造したのではない。神は数々の宇宙そのものなのだ。自分の魂の中で宇宙を感じることによって、自分の思考プロセスからそれらを創造したのは、あなた方なのだ。


光の存在であったあなた方は、この場所において、水中にあった気体状の物質の反応によってつくられたバクテリアから、生きた有機体をつくり上げた。これが、あなた方がさまざまな種類の生命体を創造するのに使った「粘土」である。


こういったものを創造するのに、あなた方は別に苦労したわけではないことを理解する必要がある。というのも、光の存在であるあなた方には、苦労するための化身というものがなかったからだ。あなた方が創造することを望んだものは、どんなものであろうと、あなた方は単にそれそのものになったのである。


自分の創造物を直接体験し、自分の創造性の表現を続けるために、神々が物質でできた自分の乗り物を創造することを決心したのは、食物連鎖がしっかりと定着してからのことだった。


思考は浸透性の振動数を持っており、物質を通りぬけてしまう要素である。したがって、光という形の思考であった神々は、花そのものになることはできたが、その香りを嗅ぐことも、その本質を知ることもけっしてできなかったのだ。彼らはあたかも、木々の間を吹きぬけられても、木を感じたり抱きしめたりすることがけっしてできないそよ風のようなものだった。



質問者 あなたがあなたの息子さんの家で昼食が出されるのを待っているところを目にしました。そのとき、私の意識とあなたの意識の内容が似たものなのか、部分的に異なるのか、それともまったく違うのかと不思議に思っていたのです。あなたは私のように空腹や喉の渇きを覚え、食事が給仕されるまで落ち着かずにいるのでしょうか、それとも、まったく異なったマインドの状態に在るのでしょうか?


マハラジ 表面上の違いはほとんどない。だが、その奥深くではたいへん異なる。あなたはあなた自身を感覚とマインドを通してのみ知っている。あなたはそれらが示唆することをあなた自身として受け入れ、自己の直接の知識をもっていない。あなたのもっているのは単なる観念だけだ。すべて平凡で、使い古しのうわさによるものにすぎない。あなたは何であれ、あなたであると考えたことを真実として受け入れてしまう。あなた自身が知覚可能で、描写可能なものだと想像する習慣が、非常に強固になってしまっているのだ。
私はあなたが見るように見、あなたが聞くように聞き、あなたが味わうように味わい、あなたが食べるように食べる。私はまた喉の渇きや空腹を感じ、時間通りに食事が給仕されることを期待する。飢えたとき、また病気をしたとき、私の身体とマインドは弱まる。これらすべてを私はまったく明確に知覚するが、どういうわけか、私はそのなかにはいないのだ。私は自分がその上を漂い、超然として離れてあるように感じるのだ。超然として離れていると言うことさえ、本当ではない。そこに空腹や渇きがあるように、超然と分離の感覚がそこにあるのだ。そこにはまた、気づきと計り知れない距離の感覚がある。あたかも、身体とマインド、そしてそれらに起こるすべてが、どこか遥か地平線の彼方で起こっているかのようだ。私は映画のスクリーンのように明白で空っぽだ。画像はその上を通り過ぎ、明白で空っぽのままの状態を残して消えていく。どの点においてもスクリーンが画像に影響されることはない。また、画像もスクリーンによる影響を受けはしない。スクリーンは画像を遮り投影する。スクリーンが画像を形づくるのではないのだ。それはフィルムと何の関わりもない。フィルムはフィルムとして、ひと塊の運命なのだ。だが、私の運命ではない。スクリーン上の人びとの運命だ。


質問者 あなたは画像のなかの人びとが運命をもっていると言うのではないでしょうね! 彼らは物語に属しているのです。物語は彼らのものではありません。


マハラジ では、あなたはどうだろうか? あなたはあなたの人生を形づくっているだろうか、あるいはあなたがそれによって形づくられているのだろうか?


質問者 確かに、あなたの言われるとおりです。人生の物語はそれ自体で繰り広げられ、私はそのなかのひとりの役者にすぎません。私なしにはそれが存在しないように、その外側に私の存在もないのです。私はただの登場人物であって、個人ではありません。


マハラジ 彼が人生を起こるがまま受け入れる代わりに、自分でそれを形づくりはじめ、彼自身をそれと同一化するとき、登場人物は個人となるのだ。


質問者 私が質問し、あなたが答えるとき、正確には何が起こっているのでしょう?


マハラジ 質問と回答は、ともにスクリーン上に現れるだけだ。唇は動き、身体が話す。そして、ふたたびスクリーンは明白で空っぽになる。


質問者 あなたが明白で空っぽだと言うとき、あなたは何を意味しているのですか?


マハラジ それはすべての内容から自由であることを意味しているのだ。私自身にとっては、私は知覚可能なものでも、想像可能なものでもない。「これが私だ」と示唆できるようなものは何ひとつないのだ。あなたは自分自身をいともたやすくあらゆるものと自己同一化してしまう。私にとって、それはまったく不可能だ。「私はこれでもなく、あれでもない。また、何も私のものではない」という感覚が私のなかで非常に強いため、あるもの、あるいはある想いが現れるやいなや、「これは私ではない」という感覚がやってくるのだ。


質問者 あなたは「これは私ではない、あれも私ではない」と繰り返すことで時間を過ごしていると言われるのでしょうか?


マハラジ もちろん、そうではない。私はただ、あなたのために言葉に置き換えてみただけだ。グルの恩寵によって、私は主体でも客体でもないということを永久に実現し、つねに自分自身に思い起こさせる必要はないのだ。


質問者 あなたが主体でも客体でもないと言われることで、正確には何を意味しているのか私には理解できません。私たちが話している今この瞬間、私はあなたの体験の客体であり、あなたがその主体ではないでしょうか?


マハラジ 見なさい。私の親指は人差し指に触れている。触れるものと触れられるものの両方だ。私の注意が親指にあるとき、親指が感じるものであり、人差し指は──自己なのだ。注意の焦点を移行し、その関係を逆転してみなさい。注意の焦点を移行することで、私は私が見ているそのものと成り、それがもっている意識を体験し、そのものの内なる観照者となることを見いだしたのだ。この他者の意識の焦点に入る能力を、私は愛と呼ぶ。あなたはあなたの好きなように呼ぶがいい。愛は、「私はすべてだ」と言い、智慧は、「私は無だ」と言う。その二つの合間を私の人生は流れていく。いかなる時間と空間の点においても、私は体験の主体と客体の両方であることができるため、私はその両方であり、どちらでもなく、またその両方を超えていると表現するのだ。


質問者 あなたはあなた自身に関するそのような並外れた表明を行います。何があなたにそのようなことを言わせるのでしょう? 時間と空間を超えると言うことで、あなたは何を意味しているのでしょうか?


マハラジ あなたが尋ね、そして答えがやってくる。私は私自身を見守り、答えを見て、そこに矛盾のないことを見るのだ。私が話していることが真実だということは明らかだ。それはまったくシンプルなことだ。あなたは、ただ私を信頼しなければならない。つまり、私が話すことはまったく真剣だということだ。すでに話したように、グルは私に自己の本性と世界の本性を見せてくれた。それを実現したため、私は世界とひとつであり、しかもそれを超えているのだ。私は欲望と恐れのすべてから自由になった。私が自由になるべきだと論証したのではない。まったく予期せず、何の努力もなく、私は自由であることを見いだしたのだ。この欲望と恐れからの自由は、それ以来、私とともにとどまっている。もうひとつ見いだしたことは、私は何の努力をする必要もなく、何の遅れも軋轢もなしに、行為が思考にしたがうということだった。私はまた、思考が自己充足するようになり、ものごとがすらすらと、正しい場所に落ち着いていくことも見いだしたのだ。主な変化はマインドのなかだった。それは不動で、沈黙し、素速く反応するが、反応を永続させなくなった。自発性が生のあり方となり、真実は自然になり、自然さは真実となった。何にもまして、生は無限の愛、幽玄で静穏な、すべての方角に輝き、すべてを抱擁し、すべてを興味深く、美しく、意味深くする幸運なものとなったのだ。


質問者 自己本来の存在を実現した人には、さまざまなヨーガの能力が自然と手に入ると聞いていますが、これに関するあなたの体験はどのようなものでしょうか?


マハラジ 人間の五つの層の身体* は、私たちのもっとも突飛な夢をも実現可能にする能力をもっている。人のなかには宇宙全体が反映されているばかりではなく、彼には宇宙をコントロールする力も提供されている。賢者は、状況がそれを必要としないかぎり、そのような力を使うことを切望したりしない。日々の生活のためには、彼は個人のもつ技術と能力で充分に適切だと見ているのだ。ある能力は特別な訓練で発達させることができる。しかし、そのような能力を誇示する人は、いまだに束縛のなかにいるのだ。賢者は何ひとつ、自分のものと見なさない。ある時と場所で、ある奇跡がある人のせいで起こったとしても、彼は出来事と人びととの間にいかなる因果的な結びつきも証明しないだろう。また、いかなる結論も引き出すことを許さないだろう。すべては起こるように起こるのだ。なぜなら、それは起こらなければならないからだ。すべてはそのように起こる。なぜなら、宇宙はあるがままだからだ。


質問者 宇宙は幸福に生きる場所のようには見えません。なぜこれほど多くの苦しみがあるのでしょうか?


マハラジ 苦痛は身体的なもの、苦しみは精神的なものだ。マインドを超えたところに苦しみはない。苦痛は身体が危険にあり、注意を要求しているという単なる信号なのだ。同様に、苦しみは個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、喪失、あるいは変化によって脅かされていると私たちに警告しているのだ。苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。苦しみは完全に、執着すること、あるいは抵抗することを理由に起こる。それは私たちが人生とともに流れ、進んでいくことを自ら欲しないことの兆候なのだ。
健全な人生が苦痛から自由であるように、聖人の人生は苦しみから自由なのだ。


質問者 聖人ほど苦しむ人は誰もいないでしょう。


マハラジ 彼らがあなたにそう言ったのかね? それともあなたが自分からそう言うのだろうか? 聖人のような高徳な生き方の本質は、現在のこの瞬間の完全な受容と、起こるがままとの調和にあるのだ。聖人はあるがままから変わってほしいとは望まない。すべての要因を考慮した上で、それが不可避であることを彼は知っているのだ。彼は必然的なものと親しくあり、それゆえ苦しむことがないのだ。苦痛なら彼も知っているだろう。だが、それが彼を打ちのめすことはない。もし彼にできるならば、失われたバランスを必要なだけ回復するだろう。あるいは、ものごとがそれ自体の流れを取るにまかせるだろう。


質問者 彼は死ぬかもしれません。


マハラジ それが何だというのだろう? 生きつづけることで、彼が何を得るというのだろう? 死ぬことで彼が何を失うというのだろうか? 生まれたものは死なねばならない。生まれなかったものは死ぬことはできないのだ。すべては彼が彼自身を何であると見なしているかによるのだ。


質問者 あなたが致命的な病気になったと想像してください。あなたは後悔したり、憤ったりするのでしょうか?


マハラジ だが、私はすでに死んでいるのだ。あるいは今まで生きたことも死んだこともなかったのだ。あなたは私の身体が習慣的にふるまっているのを見て、あなたなりの結論を引き出す。あなたの結論が、ほかの誰でもないあなた自身を束縛するということを、あなたは認めないだろう。あなたが抱いている私のイメージはまったく誤ったものかもしれないということを見て取りなさい。あなた自身のイメージもまた誤りなのだ。しかし、それはあなたの問題だ。だが、私のために問題をつくり出しておいて、それから私に解決するように要求する必要はない。私は問題をつくり出してもいなければ、解決してもいないのだ。


* 訳注 五つの層の身体
人間は五つのさやに包まれているというヒンドゥー教の概念。
(一)アンナー・マヤ・コーシャ 物質的身体
(二)プラーナ・マヤ・コーシャ 呼吸にともなう五つの気と五つの行動器官の身体
(三)マノー・マヤ・コーシャ マインドと五つの行動器官の身体
(四)ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ 知性と感情の器官の身体
(五)アーナンダ・マヤ・コーシャ 至福の身体。


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Fiora & nobody