気づいている視点という1クッションは「ない」


最初は「ある」と思ってるんです。別の何か、1クッションを想定している。
今現在のありのままの姿に、何か隠されたものが「ある」ような気がしている。


ある意味で、それは正しいのですが、絶対的に間違ってもいます。
神と呼ばれる圧倒的・爆発的な意識の感覚は、人間が知るあらゆる快楽の100万倍の強さを持っていると私は思います。その快楽の強さは、地上のドラッグなどの比ではないはずです(私はドラッグをやったことがないので厳密な比較はできないですが)


そういう日常意識とは別次元と言っていい意識感覚があるのは事実です。
事実ですが、その入り口は瞬間のぜんぶを体験しようとする意識状態でないとくぐれないのも事実です。


わたしたちは全員、もう今この瞬間、すでに、


体験しているんです。過去にそういう体験があったわけではなく、
今この瞬間、体験しています。どう思考が否定していても、体験しています。


問題は、その体験を「解釈」しようとする理性の作用です。
記憶に基づく自我の作用です。


瞬間というのは今この瞬間「しかない」ので、解釈しようとしている自我は今この瞬間に「しか存在できません」


自我は記憶の持ち込みですから、
記憶の持ち込みと「ありのままの今ある」は合目的的に言えば「両立できません」


記憶の持ち込みを頻繁に行う習慣がストップしていない状態では、神は感じられないのです。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
03 2024/04 05
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Fiora & nobody