思考に気づいている視点


尊敬する先達の一人Y氏がよくおっしゃっていた「思考に気づいている視点」という言葉の表現は、正しいのですが、誤解を招きやすい微妙な点を含んでいると思います。


思考の内容がたとえば


「梅のおにぎりはあまり好きではない。鮭のおにぎりは好きだ。そういえば最近新作のおにぎりでわけのわからないものがコンビニに出回っているが、あまり関心しないな、もっとシンプルに、昔ながらの伝統の味で勝負すべきだ、何だか小手先の新作が増えているよ」
というものだとします。


思考に気づいている視点というのは、このおにぎり論争に気づいている視点ではありません。


梅がいいか、鮭がいいか、コンビニの営業方針を批判することでもありません。


思考が「ある」かどうか気づいている視点なんです。
逆に「ない」かどうか気づいている視点とも言えます。


内容の詳細は追いませんし、追えません。
思考はやって来るものであり、「引き止めなければ」そのまま通り過ぎていきます。


おにぎりに関するちょっとした閃光のようなイメージ。味。匂い。好み。
嫌いなおにぎり。好きなおにぎり。ちょっと気障なおにぎりに対する嫌悪感。


それが「やってきて、通過して、去っていく」ところを目撃していることなんです。
引き止めず、そのエネルギーのあるがままにさせていることなんです。


それが思考に気づいている視点です。
今、思考がある?イエス または ノー
これに即答できる(言葉にしなくても意識している)ような意識状態なわけです。
それは自分(個人としての自分)の今の状態に気づいている視点とも言い換えられるわけです。


神が見つかるのは「体験のみ」に近づいていった時だけです。
そのために、解釈する自我の大元から離れることができることに気づかなければなりません。


選択ができる、という確信は、今この瞬間にあるのか、感じているのかどうかです。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody