歌と歌詞と思考観察

こんばんは。お三方ご丁寧にコメントくださりありがとうございました。
今夜もそれに関連して、もう少し書かせてください。


不思議なことに真我というのは、「今この瞬間の体験そのものに化けている」という特徴があって、悩みや苦しみや喜びや、人間体験のすべて、文化も芸術も、スポーツも経済も、すべてが真我の一人芝居です。


空(そら)がみる夢のようなもの。夢のような世界。あっという間に現れてあっという間に消失する世界。鉄筋コンクリートの高層ビルが蜃気楼のような幻であることは、とても気づきにくいです。


そこでは小市民Aが自分で、ヒトとしての限界に苛まれ、どうやったら「完璧なカーテン(エゴが価値を置く完璧な人生のイメージ)」を得られるかに苦悩するのが普通です。


くるしい、という感覚は、今この瞬間のそのままの姿に抵抗する思考から生まれます。


空にオーダーメイドの物差しをあてて、どうして「思ったとおりにならないんだ!?」と地団駄踏んで悔しがる子供のようなものですから、思考を止めればいい。解釈をやめればいい。実践が容易ではなくても、とても単純な話です。単純明快です。


ただ実行は容易ではない。どんなにシンプルであっても、貫くことは難しい。
たぶん、ですが今回のこの人生のことだけではないんです。過去から連なる自分の思考パターンがかなり根強く今この瞬間に残って浮遊しています。


ネガティブな人間関係によってエネルギーのバランスが崩れ、傷つき、救いを求めれば求めるほど、どこか歪(いびつ)なカタチに人間が歪むんです。みんな大なり小なり、傷つき、歪んでいます。忘れなければ個人は生まれることができません。


その歪みをそのまま許すこと、認めること。応急処置をしようとしないこと。
醜くても、ありのままに体験すること。ヒトの視点から神の自由の視点に移行すること。それはヒトとしての努力を一時棚上げすることです。それがたまらなく恐ろしいものに感じる。


今にあるとは、歌のようなものだと思うんです。
思考とは、もう2秒前に通り過ぎた歌詞に引っかかりを覚えて反芻することです。
音を楽しんでいるかというと歌詞に気をとられた瞬間、音楽は消え去ります。
両立しません。


誰もに、引っかかりのある歌詞が群れのようにあるんです。その数は無数です。
100万の歌詞が流れをせき止めています。


この日記を書き始めてからコメントくださった方の中に、
「思考に魅力を感じている、思考が楽しいから、ぽいっと捨てるのには躊躇してしまう」


というご意見をくださった方がいました。おっしゃるとおりなんです。
思考は楽しいんです。そこそこ魅力的で、痛みを止めるための一時的な麻酔のようなものであっても、完全に捨てる覚悟をもつのは簡単ではないんですよね。


いただいたコメント返信がありますので、今夜はこのへんで。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody