かたちがない なまえがない なにもない


自由です。真我とは自由の別名であり、すべての言葉の背景が沈黙であるように、あらゆる現われの背景は自由です。


かたちあるもの、人であること、どんな人生も自由です。
法律をつくって人を裁くのも自由ですし、一般市民を巻き込む悪い行いも自由です。


いいえ、それでは悪になってしまうのだから、善でなければ。
そういうのは単なる思考です。


「よく見てみれば」わたしたちの意思決定は自由という背景から「なぜかわからないまま突然発生した現われ」を体験(観察)すること「しかできていない」ことに気づきます。体験すること以外の選択肢があったことはありません。


私が悪と戦ったのなら、わたしはそれを体験している(見ている)だけです。
私が悪だったのなら、わたしはそれを体験している(見ている)だけです。
その、わたしは潔白です。


行為者の私が善悪の両極を揺れ動いているときに、自由のわたしはこの瞬間そのものという舞台であるだけです。役者の演技は関係なく、舞台はつねに舞台です。この瞬間という舞台以外に立てたことがある人は未だかつていないはずです。


悲劇も喜劇も、同じ舞台で起きています。
この瞬間に起きています。今、上映されている内容は関係ありません。
この瞬間という舞台が私一人でも実際にある以上、全員に舞台はあるんです。


では、舞台に焦点をあてたことはあるでしょうか?
ほとんどないですよね。というかほとんどできないんです。それより役者の演技や脚本に目を奪われるのが普通なんですから。それが演劇の楽しみ方です。


舞台に焦点をあてるとは、目の前に見えているものはまず違います。舞台ではありません。触っているものも違います。思考も感情も違います。認識するもののすべてが舞台ではありません。舞台に焦点をあてる計画を立てたとしても、計画自体が思考で演劇の一部です。


もしも、この舞台がなかったのなら、その上のあらゆる演劇はあったでしょうか?
ないです。
では、いまこの舞台がないなら、その上の演劇はあるでしょうか?
ないです。


演劇がある以上、舞台があるということです。
演劇は変わりますが、舞台は変わりません。


体験がある以上、体験者があるということです。
体験は変わりますが、体験者は変わりません。


私たちにとって、演劇には気づけても舞台に気づくのはとてもむずかしい挑戦です。
この舞台はみえません。かたちがありません。匂いがありません。何の属性も、ないんです。だからその上のあらゆる現われを可能にしています。あらゆる現われをその状態そのままで気づくことができる、そういう空間があると言い換えられます。直接的すぎてその「ある」だけは否定できません。


大海の中で水に気づくほうがまだ難易度は易しいです。
水は水属性です。かたちがあり、性質があります。
ですが、無属性には、自由には、潜在的可能性には、本当に何もない。どんな現われにも浸透し、ただ体験しているだけ。気づいているだけ。受容するだけ。超越するだけ。
否定や抵抗が「ある」ことまでなぜか最初から受容しています。


舞台上のみえるもの、かたちあるものを指し示すのは簡単です。かたちがあるので、形状を指し示せばいい。


舞台そのものを指し示すのは不可能です。本質的に不可能。ですが、存在を指し示すことだけは、存在するから検証してみてくれませんか?と伝えることだけはぎりぎりなんとか可能です。その検証も、人の直接的な意識体験でしか検証できません。体験できないなら、検証できません。全員が既に、体験済みです。いま体験している真っ最中です。誰も「それ」を否定できません。検証はいま可能です。


演劇、舞台、観客が分離してあるなら三つです。分離はないので一つです。


いま、体験している真っ最中です。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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