人モードになっている時は、嫌がる。そこから見たニュートラルな立ち位置はニュートラルとは違う。それはこのへんがニュートラルだろうという推測(思考)にすぎない。
放射するように、透過するように、今この瞬間にあるものをシーンと見ているなら、空間モードの真我に近づいている。
それは瞬間の最も「端っこ」まで等分に気づいていることであり、肉体に極めて近い呼吸と、100m離れた場所での音の発生が完全に等価である時に、ニュートラルとなる。
それは瞬間そのものを立脚点として思い出している状態だ。
その時は分析を行う暇がなく、今「起こっていること」に新鮮な視点で気づいている。
だから何も知らないことを許容しないと、そこには立てない。
知らないことを怖れているなら、知っているフリを止めることはできない。


今どっち?
空間なのか人間なのか


空間は人間を浮かび上がらせるから、普段私たちは人間としての自分をより強固に強調して感じている。これが空間側への認識を頻繁に思い出すことにより、本来の静寂に戻っていく、思い出していく。


静寂に転換している間、思考は勝手には出てこなくなり、音や、触感などはそのままクリアに感じることができる。思考が発生しないので、それに基づいた感情も発生しない。その間思考が使えないわけではない。使える。意図しない限り発生しないだけだ。


最初は、この「(静寂の)感覚が」想像すらできない。なぜならおしゃべりしていた時間が4歳の時からなので、おしゃべりなしの感覚を忘れてしまっているから。私たちの思考がないという感覚と、静寂の感覚は違う。イコールではない。


静寂に転換した時にわかるのが、何も必要としないということ。
肉体には水や空気が必要だし、食べ物が必要だけど、それは肉体が必要としているのであって、空間は別に必要としていない。だからまったく、執着をしていない。この感覚に物凄いギャップがある。


何も避けたがらないし、追いたがらない。求めていない。
動機はすべて消える。


たとえば友人から飲みに誘われていて、雨が降っていたとすると、心の底では面倒くさいなあ、嫌だなあ、と思っている時はエゴ(自我)が主体となっている証拠だ。エゴは嫌がる。


もし静寂なら、何も嫌がらない。どっちでも、いいと感じている。雨も天気も別に関係ない。この肉体がどこに行こうと、何を味わおうと、大した問題ではない。静寂はどこにも移動せず、どこにも存在する。行為をしていないので、ただ見続けるだけだ。


そういうふうに認識が切り替わるまで「瞬間(いま)あるものに気づき続ける」だけでいい。



蝙蝠(こうもり)


静寂とはどこにあるのか?と探している時、教室は常にざわざわと騒がしい状態です。
誰がしゃべっているのかは置いておいて、とにかく無数のざわめきが波のように満ちていて、焦点は次から次へと思考と感情に翻弄され、しかもそれらに同一視しているのでちっぽけな自己像のため不安でたまらず、確固とした拠り所がどこにもありません。


拠り所を空想の世界につくろうとしても、それは拠り所にはなりません。
空想は、空想です。


静寂に還っていく体験が深まっていくと、途中でふと気づきました。
これは何かを放射している。これはリラックスしている。蝙蝠の超音波のように。


そして、雑音はいつのまにか止んでいるんです。


静寂は何もないことではないんです。静かな郊外や田舎に引っ越すことではなく、
あるもの全てを透過する(すり抜ける)ことなんです。
放射感覚は透過感覚でもあります。無音の光のような「すり抜けるなにか」を放射しているようです。



あなたが今ピンチに陥っているとします。刃物を持った通り魔3人になぜか襲われています。3対1です。あなたはもちろん何も持っていません。


不足しているものを数え上げている暇もありません。
「どうして私がこんな目に?…」ぶつぶつ言っている暇もないんです。


どうしますか?


一番有効だと私が思うのは、「瞬間(いま)にいる」ことです。
具体的に言うと、肉体の中に意識の焦点があり、思考の発生の瞬間から気づいていて、感情を一歩距離を置くように認識でき、肉体感覚(接触している足の裏など)に鋭敏であることです。いまです。いま。この瞬間にあるもの全てを体験している状態。何をしていても今この瞬間にあるものに「集中し、くつろいでいる」言葉にすると矛盾するような状態です。緊張しているとあっという間に刺されます。


最初は意識しても「数分間」しかもちません。だから10分続けることはほぼ不可能です。
そのため頻繁に思い出す必要があります。思考が瞬間にいることを許さないからです。


みえない思考の雑音連鎖を静めるためには、聞こえる音などに集中すればいいんです。
今ある自然音を発生から消失まで普通に自然音に「気づき続けている状態か」チェックすればいい。
呼吸でもいいですが、呼吸は音より最初は難易度が高いような気がしています。


思考ではなく、音に気づき続ければいいんです。
思考は無自覚のためとても気づきにくい。


音は思考と相関しています。
思考に巻き込まれているなら音が聞こえなくなり、音に巻き込まれているなら思考が(勝手に)止まります。


音に巻き込まれ続ければ、思考(自我)は越権行為を止めざるをえません。
音に巻き込まれることが今にあることです。



こいさん、レナード・ジェイコブソン氏の「今この瞬間」への旅読ませていただいています。非常に具体的でわかりやすく示唆に富んでいます。すばらしい本を教えてくださってありがとうございます。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody