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もしあなたが実在を探求しているのなら、すべての文化的な考えや感じ方のパターンといった背景から、あなた自身を自由にしなければならない。男や女であるといった観念さえ放棄されるべきなのだ。生命の大海は人類だけではなく、すべてを包含している。まず、すべての自己同一化を放棄し、あなた自身をあれやこれとして考えるのをやめなさい。あらゆる利己主義を放棄しなさい。物質的であれ、霊的であれ、あなたの幸福について心配するのをやめなさい。粗雑なものであれ、微妙なものであれ、すべての欲求を放棄しなさい。いかなる類の達成についても考えることをやめなさい。あなたは今ここで、完璧なのだ。あなたは絶対的に何も必要ないのだ。


上記のマハラジの言葉は崖に立つための資格を指していると思っています。


フィオラからは、動機がなくなるとは演技ではないと言われています。


ケン・ウィルバーの言うターニングポイントもこれです。


「私」はいないということが判明すると驚愕しますが、真実です。よってすべての「修行」はここを理解し、この断崖に立てない限りは意味がないのです。


道なき道は崖があるだけです。一歩も足を運ぶ道はありません。


私を浄化しようとか、私を強化しようという発想は幻影に基づいていて、不可能です。


すべての自己同一化が放棄されている。「私」という幻の焦点は外れていなければ、真実を体感することはできません。


真実を知る「私」などいません。


真実しかない。だから「私」がいる気がするなら、「私」を吟味するのです。「私」という感覚は断続的にしか発生していないことに気づきます。継続している実体は「なにか別のもの」です。すべての瞬間において、「私」はいない。そして残ったものも吟味に吟味を重ねていき、それでも残るものこそ「真実」です。


「私」を維持したまま、真実に近づくことはできません。それは真実を求める態度ではなく、「私」に都合のよい真実を求める態度です。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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無題
こんばんは!

今日の記事、最近私が思う事とシンクロしてます

全てを落とさなくてはならないんですね
人種、性別、その他すべてを
なぜなら「私」なんていないのだから

ここからさらにいくと
「優しい人になりたい」
「愛に溢れる人になりたい」
などの潜在的に執着しているなりたい自分、それが例え
いわゆる「善」であってもそれすら落とさなくてはならないんだと最近気づきました

なぜなら例え「善」であっても、目指す自己像がある限り
「私」を捨てられないから

私は潜在的に「優しい人間」になりたいんだと
思っていたって事に、や〜っと気づいたんです

でも自分の優しさはよくよく分析すると、取引の優しさ、
「私はこんだけあなたに無条件で優しくしたんだから
あなたは私に何か与えるべきだ!」
という何とも愛とはかけ離れたものだったんです

病的ですね(笑)
やっと気づきました、この無条件でない自分の愛に
相当反省しましたし、無意識のエゴの巧妙さに驚きました

全てを落とした本当の私=空に長く居たいならば、怖がらずに全ての自己像を捨てなくてはならないんですね

マインドの愛は偽物で、空の愛は本物。
でもこの観念すら危険ですよね
なぜなら今度はこの観念にしがみついてしまうから!

ひとつひとつ自分の抱えていた潜在的執着を暴く作業、
そして、1秒でもながくノーマインド、つまり、「今」
にいれるようにする悟後の修行、この二つが今大切だと
思っている事です

悟後の修行はあるスピ系ブロガーさんは否定していましたが
私にはやはり必要です

近況はこんな感じです(笑)
いつもありがとうございます!

こい 2013/12/28(Sat)02:31:42 編集
Re:無題
こいさん、こんにちは^^


>こんばんは!
>今日の記事、最近私が思う事とシンクロしてます
>全てを落とさなくてはならないんですね
>人種、性別、その他すべてを
>なぜなら「私」なんていないのだから


「私」が「幻」である以上、「無」と「愛」という玉座に「とどまるためには」、おっしゃるとおりだと思います。「意識的な選択が一切ない」とは、つまり何が現れようと「なんの違いもない」ことがあらゆる瞬間において体感されているということですから、完全覚醒への道を志す方は、この断崖に立ち続け、空へと身を投げ出すしかありません。


>ここからさらにいくと
>「優しい人になりたい」
>「愛に溢れる人になりたい」
>などの潜在的に執着しているなりたい自分、それが例え
>いわゆる「善」であってもそれすら落とさなくてはならないんだと最近気づきました


同感です。「善」の観念は、「愛」ではありません。
悪を必要とする善と、何も必要としない「愛」は強度が違います。
「無」と「愛」の最奥を暴くためには、「善」も含めて何もかも落とすしかないのでしょうね。


>なぜなら例え「善」であっても、目指す自己像がある限り
>「私」を捨てられないから


おっしゃるとおりですね。言葉にすると簡単に通り過ぎてしまうようですが、「私」が「幻」であると判明した以上、「私のイデア」も幻ですね。


>私は潜在的に「優しい人間」になりたいんだと
>思っていたって事に、や〜っと気づいたんです


私も「優しい人間」になりたいと今でも思っています^^
自分なりの「善」の観念です。こいさんと違って、これに真正面から向かい合うことはまだ起こっていないです。私にはまだまだ必要な補助輪なのかもしれません^^


>でも自分の優しさはよくよく分析すると、取引の優しさ、
>「私はこんだけあなたに無条件で優しくしたんだから
>あなたは私に何か与えるべきだ!」
>という何とも愛とはかけ離れたものだったんです


ものっすごく共感します^^私もそうです。
善だよ、私善だよ~^^と言いながら、後ろの手は何かをもらおうとしている^^
それを受けた誰かの悲しみを想像することが今まではありませんでした。
愛はそういうものではないですね^^


>病的ですね(笑)


決してそんなことないと思います^^地球上で「愛」は最も誤解されている言葉で、エネルギー的にも未だ遭遇したことのない方が大勢いるかもしれません。そんな中で「本当の愛がほしい」と渇きながらみんながその人なりのベストを尽くしているんですよね。みんな一緒ですよ^^


>やっと気づきました、この無条件でない自分の愛に
>相当反省しましたし、無意識のエゴの巧妙さに驚きました


私はこいさんの気づきに、また学ばせていただいています^^


>全てを落とした本当の私=空に長く居たいならば、怖がらずに全ての自己像を捨てなくてはならないんですね


おっしゃるとおりですね。すべての怖れを捨てることができたとき、光に満たされるのかもしれません^^


>マインドの愛は偽物で、空の愛は本物。
>でもこの観念すら危険ですよね
>なぜなら今度はこの観念にしがみついてしまうから!


これも危険性を鋭くご指摘くださっています。
消えないものが本物です。消えないとは、「いま体感できている」ということです。
いま体感できているものを言葉で表現する必要はありませんから、すべての言葉は「地図」としての役割以外は不要ですね^^


>ひとつひとつ自分の抱えていた潜在的執着を暴く作業、
>そして、1秒でもながくノーマインド、つまり、「今」
>にいれるようにする悟後の修行、この二つが今大切だと
>思っている事です


こいさんの真摯な姿勢はいつも春風のようで、爽やかですね^^
気持ちがあったかくなります^^ありがとうございます。


>悟後の修行はあるスピ系ブロガーさんは否定していましたが
>私にはやはり必要です


どんな道も祝福されていて、わたしたちは自由です。
こいさんの星は、私を含め、兄弟の星にも贈り物です^^


>近況はこんな感じです(笑)
>いつもありがとうございます!


とんでもないです。年末テレビがおもしろくって、本文が短くなってきてます^^
こいさんもゆっくり骨休めしてくださいね^^
いつもありがとうございます^^
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