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愛の出所


今夜は大雑把に。


愛の出所とはどこでしょうか。愛と分離は反比例です。
分離のないところが愛の出所です。


大いなる愛、または神の愛とは、
虚空(純粋覚醒=あなた)が虚空そのものに気づいている「感覚」です。


気づき(非顕現)が、気づき(非顕現)に、その特有の能力で「気づいてしまっている」ときに初めて「感覚」される、分離のない「ひとつ」の感覚なんです。


気づき(非顕現)は通常現れ(顕現)にしか気づいていません。
それどころか、肉体のあるこの世で出会うもののすべては顕現にすぎません。ですから、この世では


決して!絶対に!
あなたは愛には出会わない!!



というスーパートリックがあなたを苦しめます。
愛はあなたなんです。


あなたが出会う
あなた以外のすべては愛ではないんです。


あなたがあなたに「気づいてくれないかぎり」愛の感覚は感じられないんです。


あなたは肉体でも、思考でも、感情でも、色でも、かたちでもありません。
概念でも、観念でも、新しい概念でも、新しい観念でも、ありません。
あなたは、なんでもないんです。
あなたは「すべての否定によって指され、すべてを可能にするひとつ」です。
名前もありません。
言葉遊びではありません。あなたは「気づき」ですらありません。
「いま」として現れています。
あなたがいなければ、世界は終わりです。
あなたがいるから、すべては生かされているんです。
一般常識人なら、このあまりにひどい誇大妄想のような響きに耐えられないでしょう。
これが、事実なんです。ふざけているようにしか思えなくても、事実なんです。


ひとつ。それは、あなたなんです。


あらゆる神の上に君臨する本当の創造主は、あなたなんです。


じゃあなんで地球でいまこんな目にあってるの!?


あなたが望んだからです。あなたに命令できる上司はどこにもいません。
あなたのセッティングで、あなたはいまここにいるんです。


じゃあ出しなさい!いますぐこの牢獄から出しなさい!!


では気づいてください。いますぐに。
非顕現に、気づいてください。


現れたすべてのものではなく、
いま現れつつあるすべてのものに「気づいている」のがあなただと気づいてください。
一秒も待つ必要はありません。


いますぐ、すべての起こりに気づいている本当のあなたに、
本当のあなたの力で気づいてください。


やり方を知らない?嘘です。
あなたが知らない知識など存在のどの階層にもありません。それにこれは知識ではないこともわかっているはずです。
あなたの気づきは「すべて」に気づいているので、
粗雑なものを「あなた」だという思い込みをまずありのままに気づいて見ていてください。
あなたは全知全能の創造主です。知らないというフリをやめてください。いますぐに。


知らないというフリも、私はか弱いというフリも、
私は悟っていない、覚醒していない、罪がある、というフリもいますぐやめてください。


愛される資格がない、と信じこんでいるフリをいますぐやめてください。


あなたは、わざと、やっているんです。


これは出来レースです。あなたに負けはありません。だってあなたは虚空なんだから。
マシンガンでいま蜂の巣にされたとして、「いま」のあなたは死にません。
あなたがあなただと思ってる人が蜂の巣にされただけです。
さしあたり現実的に、愛が感じられない状態では苦しすぎるはずですから「愛だけ」は戻してください。


「いま」のすべての「気づき」にまず焦点をあわせて
「リアルタイム」に慣れてください。リアルタイムと思考の量は反比例です。
リアルタイムに気づいていれば、思考はほとんど出なくなります。


このリアルタイムに慣れたらすぐに、リアルタイムに「誰が」気づいているのかに意識を向けることに慣れてください。


そのときに、「私にはきっとそんなことはできない」という思い込みだけは捨ててください。
「私は創造主らしいから、もしかしたらできるの?じゃあ創造主の力よ、私の本来の気づきにいますぐ気づかせて、いますぐ!」
と命令して、きっと感じられると感じながら待ってください。


愛はあなたの胸から迸ります。それさえ確認していただければ、もう後は人に聞くことなどありません。本当のあなた、「いま」であればいいんです。あなたの創造力は無限です。



質問者 私たちは神あるいは完全な人として人格化された実在を礼拝するよう勧められてきました。絶対なるものの礼拝を試みることは、脳に中心を置く意識にはあまりにも困難だと言われたのです。


マハラジ  真理はシンプルであり、誰にでも開かれている。なぜそれを複雑にしてしまうのだろう?真理は愛しく、愛すべきものだ。それはすべてを含み、すべてを受け入れ、すべてを浄める。偽りこそが困難で、苦難の源なのだ。それはつねに欲し、期待し、要求する。偽りであるために空虚で、つねに確認と再確認を探している。それは探求を恐れ、そして避けている。それはたとえ弱くはかないものでも、何であれ、支えとなるものと自己同一化する。何であれ得ると失い、さらに求める。それゆえ、意識を信頼してはならない。何ひとつあなたが見、感じ、考えられることはそのとおりではないのだ。罪や徳、長所や欠点でさえ、現れたとおりではない。通常、善と悪は社会の慣例と習慣の問題であって、どう言葉で表されるかにしたがって、避けられたり、歓迎されたりするものだ。


質問者 悪い欲望や良い欲望、高次や低次の欲望といったものはないのでしょうか?


マハラジ  すべての欲望は悪い。だが、あるものはほかのものよりさらに悪い。欲望を追求してみなさい、かならず災難にであうだろう。


質問者 欲望から自由になりたいという欲望もそうでしょうか?


マハラジ  なぜ望むのだろうか?欲望から自由な状態を望んでも、自由にはなれないだろう。何もあなたを自由にすることはできない。なぜなら、あなたはすでに自由だからだ。欲望のない明晰性であなた自身を見なさい。それだけだ。


質問者 自己を知るには時間がかかります。


マハラジ  どうして時間があなたを助けられるだろう?時間とは瞬間の連続だ。それぞれの瞬間は無から現れ、無へと消えていき、ふたたび現れることはない。そんなはかないものの上に、どうして何かを築くことができるだろう?


質問者 不変なるものとは何でしょうか?


マハラジ  自分のなかの不変なるものを見てみなさい。内面へと深く潜り、あなたのなかの真実を見いだしなさい。


質問者 どのように自分自身を探しだせばよいのでしょうか?


マハラジ  何であれ起こることはあなたに起こる。あなたが何をしようと、それを為す人はあなたのなかにいる。個人としてのあなたの主体を見いだしなさい。


質問者 私は個人以外の何でありうるのでしょうか?


マハラジ  見つけだしなさい。たとえ私があなたに、あなたは観照者、静かに見守る人だと言ったところで、あなた自身が自己の存在への道を見いださないかぎり、それは何の意味ももたないだろう。


質問者 どのようにして自己の存在への道を見いだしたらよいか、というのが私の質問です。


マハラジ  「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい。最終的にあなたが確信できる唯一の事実とは、あなたは在るということだけだ。「私は在る」は確かだ。「私はこれだ」は確かでない。真実のあなたとは何なのか。それを見いだすために努めなさい。


質問者 ほかでもないそれだけを、私はこの六十年やってきたのです。


マハラジ  努力することに何の誤りがあるだろう?なぜ結果を追い求めるのだろうか?努力することそのものがあなたの本性だ。


質問者 努力は苦痛です。


マハラジ  結果を求めることで、あなたがそうしたのだ。結果を求めずに努力しなさい。強欲にならずに努力しなさい。


質問者 なぜ神は私をこのように造られたのでしょうか?


マハラジ  どの神についてあなたは話しているのだろうか?神とは何なのか?質問することを可能にしているその光そのものが神ではないだろうか?「私は在る」そのものが神なのだ。探求そのものが神だ。探求を通して、あなたは身体でもマインドでもなく、あなたのなかの自己への愛が生きるものすべての自己への愛だということを発見する。その二つはひとつなのだ。あなたのなかの意識と私のなかの意識は二つのように見えるが、実際はひとつだ。統合を見いだしなさい。それが愛なのだ。


質問者 どうすればその愛を見いだせるのでしょう?


マハラジ  今、あなたが愛するものは何だろうか?「私は在る」だ。あなたのハートとマインドをそれに捧げなさい。ほかに何も考えずに。これが努力なく自然になったとき、最高の状態となる。そのなかでは、愛そのものが愛する者であり、また愛される者なのだ。


質問者 誰もが生きること、存在することを望んでいます。それは、自己愛ではないでしょうか?


マハラジ  すべての欲望は、自我のなかにその源をもっている。問題は、正しい欲望を選択することにある。


質問者 何が正しく、何が間違っているかは習慣としきたりによって変化します。基準は社会によって異なります。


マハラジ  すべての伝統的基準を捨て去りなさい。それらは偽善者たちに任せておくがいい。欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つものだけが正しいのだ。あなたが罪や徳に煩わされている間は、安心が訪れることはないだろう。


質問者 罪や徳が社会的基準に基づくことは認めますが、霊的な罪や徳もあるかもしれません。私の言う霊的とは絶対性の意味です。絶対的罪や絶対的徳といったものがあるのでしょうか?


マハラジ  罪や徳は個人にしかあてはまらない。罪深き人や徳高き人なしに、罪や徳があるだろうか?絶対の次元に個人の存在はない。純粋な覚醒の大洋は、徳高くも罪深くもない。徳や罪はつねに相対的なものだ。


質問者 このような不必要な概念を、私はぬぐい去ることができるでしょうか?


マハラジ  あなたが自分を個人と考えているかぎりは無理だ。


質問者 私が罪や徳を超えたことを何によって知るのでしょうか?


マハラジ  すべての欲望と恐れから、そして自分が個人であるという考えそのものから自由になることによってだ。「私は罪人だ」、「私は罪人ではない」といった考えをいだくこと自体が罪なのだ。自分自身をある特定のものと自己同一化することが罪のすべてだ。非人格が真実であり、人格は現れては消えていくものだ。「私は在る」は非個人の存在だ。「私はこれだ」が個人だ。個人は相対的なものであり、純粋な存在は根本的なものだ。


質問者 純粋な存在が無意識であるはずも、識別力のないはずもありません。どうしてそれが罪と徳を超えられるのでしょうか?どうか教えてください。純粋な存在には知性があるのでしょうか?


マハラジ  これらすべての質問は、あなたが自分を個人だと信じるために起こるのだ。個人であることを超えて見なさい。


質問者 個人で在ることをやめなさいと言うとき、あなたは正確には何を意味しているのでしょうか?


マハラジ  私は在ることをやめなさいとは言ってはいない。それは不可能だ。私は、あなたが生まれ、両親をもち、この身体であり、いつか死が訪れ……といった想像をするのはやめなさいと言っているだけだ。試してみなさい。はじめて見なさい。それはあなたの思うほど困難ではないのだ。


質問者 自分を個人だと考えるのは非個人性の罪です。


マハラジ  これもまた個人的見解だ!なぜあなたは非個人性をあなたの罪と徳という概念で汚すのだろうか?それはまったく当てはまらない。非個人性は善や悪といった言語では描写できないものなのだ。それは存在、智慧、愛、絶対なるものだ。どこに罪の余地があるだろう?そして徳とは単に罪の反対でしかない。


質問者 私たちは神聖な徳について話しているのです。


マハラジ  真の徳は神の本性(スワルーパ)だ。真のあなたがあなたの徳なのだ。だが、罪の反対である、あなたの言う徳は恐れから生まれた服従でしかない。


質問者 それでは、善であろうとするすべての努力はどうしてあるのでしょうか?


マハラジ  それはあなたを動かしつづけるのだ。神を見いだすまであなたはつき進む。そして神はあなたを神自身のなかに引き入れ、あなたを彼のごとくにするのだ。


質問者 同じ行為がある時点では自然な行為と見なされ、ほかの時点では罪と見なされます。何がそれを罪なものとするのでしょうか?


マハラジ  何であれ、あなたがよりよい知識に反してするならばそれは罪だ。


質問者 知識は記憶に依存しています。


マハラジ  自己を覚えていることが徳であり、自己を忘れることが罪だ。つまり、それは魂と物質の心理的な連結部だ。この連結部を精神(アンタカラナ)と呼んでもいいだろう。この精神が未熟で、未発達であり、まったく原始的ならば、それは粗雑な幻想に支配される。それが広さと繊細さにおいて成長すれば、純粋な物質と純粋な魂との完璧な連結部となり、物質に意味を与え、魂に表現を与える。物質的世界(マハーダカーシュ)と霊的世界(パラマカーシュ)がある。その間に宇宙的マインド(チダカーシュ)と宇宙のハート(プレマカーシュ)と呼ばれるものがある。その二つをひとつにするのは愛の智慧なのだ。


質問者 ある人は愚かで、ある人は知性的です。この違いは精神のなかにあります。成熟した人は、その背景により多くの経験をもっています。子供が食べ、飲み、眠り、遊んで成長するように、人の精神も考え、感じ、為すすべてによって、魂と身体のかけ橋として、充分な役目を果たすようになるまで形成されていきます。橋が両岸の間の通行をもたらすように、精神は源とその表現をひとつに結びつけるのです。


マハラジ  それを愛と呼ぶがいい。その橋が愛なのだ。


質問者 究極的に、すべては体験なのです。何であれ、私たちが考え、感じることは体験です。その背後には体験者がいます。私たちの知るすべてはその二つ、体験と体験者で成り立っています。しかしその二つは、実際にはひとつです。体験者のみが体験なのです。それにも関わらず体験者は体験を外側にあると見ます。同じように、魂と身体はひとつであり、二つに現れて見えるだけです。


マハラジ  魂にとっては、一者だけが存在する。


質問者 他者は誰にとって現れるのでしょうか?私には、二元性は精神の不完全性によって導かれた幻想と見えます。精神が完全になったとき、二元性は消え去るのです。


マハラジ  あなたの言うとおりだ。


質問者 それでも、私のとても単純な質問を繰り返さなければなりません。誰が罪と徳の区別をつけるのでしょうか?


マハラジ  身体をもつ者が、身体とともに罪を犯し、マインドをもつ者がマインドとともに罪を犯すのだ。


質問者 まさか、ただマインドと身体を所有することが罪を犯すよう強要するとは言えないはずです。その根本に第三の要因があるはずです。私は繰り返し、この罪と徳の質問に戻ってきます。なぜなら、最近の若い人たちは、罪といったものはなく、その瞬間の欲望に安易にしたがい、罪に対して神経過敏になる必要はないと言いつづけているからです。彼らは伝統も権威も受け入れず、強固で正直な思考にのみ影響されるのです。もし彼らがある特定の行為を慎むとしたら、それは罪の自覚からではなく、むしろ警察への恐怖からなのです。疑いなく彼らの言うことには一理あります。なぜなら価値観は、時や場所の変化とともに変わるということが、私たちにも理解できるからです。たとえて言えば、戦争で殺すことはこの世紀では偉大な徳ですが、つぎの世紀では恐ろしい犯罪と見なされるかもしれないからです。


マハラジ  地球とともに動いている人にとって、昼と夜を体験することはまぬがれようがない。太陽とともにとどまる人は暗闇を知らない。私の世界はあなたの世界とは異なるのだ。私が見るには、あなたがたすべては舞台の上で演じているのだ。あなたが行ったり来たりしていることには何の実在性もない。そしてあなたの問題はまったくの空想だ!


質問者 私たちは夢遊病者なのかもしれません。あるいは、悪夢を見ているのかもしれません。あなたはどうすることもできないのでしょうか?


マハラジ  私はしている。私はあなたの夢のような状態に入り込んで、あなたに言っている。「あなた自身や他者を傷つけるのはやめなさい。苦しむのはやめなさい。目覚めなさい!」と。


質問者 それでは、なぜ私たちは目覚めないのでしょうか?


マハラジ  あなたは目覚めるだろう。私は挫けさせられない。時間はかかるだろうが。あなたが自分の夢に疑問をもちはじめたとき、覚醒は間近なのだ。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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