いまがあることに気づいている=現実
何をしたい、としても「いま」がなければできません。
「いま」が「ある」から、何かができるんですね。
「いま」は画像としては高速で移り変わりすぎていて「知る」ことはできません。
「過去(記憶)」は知ることができるのだけれど、「いま」は「わからない」ままです。
わからない、のがマインドは嫌です。
だからマインドは「いま」が嫌です。
マインドが持ち出すのは欲望か怖れで、追うか回避しようとします。
ですから「いま」から離れる動きしかしません。
「いま」からは離れられないんですが、「いま」が「ある」と「気づいている」状態からは離れられるんです。この部分が問題(があると感じているマインド)の核心です。分離とは「気づいている」状態からの分離なんです。
部屋が散らかっているとして、よし綺麗にしよう!
というのは欲望です。このままではゴミためになる、それは嫌!というのは怖れです。
このありのままの部屋を「愛そう」というのは怪しいドグマです。
愛するも愛さないも自由なんですから。
この汚い部屋を受け入れるとか、受け入れないではなくて、
その前にありのままの部屋が「もう、ある」んです。
これこそ現実です。もう、あるんです。それは解釈の前にある現実です。
この部屋を「汚い!」から「嫌!」と解釈するのも自由。
「散らかってる」けど「愛着がわく!」と解釈するのも自由。
「なんで」こんなに散らかったんだ!?という原因追求も自由。
掃除するか、引っ越すか、記憶を呼び戻すか、解釈後の行動も自由です。
解釈とか、それに基づいた行動とかどうでもいいんです。
現実を
注意して調査しないかぎり、「現実」に隠されているものに気づかないということです。
現実に何が隠されているかは本人だけが発見できます。
その点の他人の主張は意味がありません。
いまがあることに気づいている状態から離れているのかいないのか。
そして離れていないことで思い出す喜びをエネルギーにするか、
人生の苦しみをエネルギーにするか、どちらかなのだと思います。
苦しみは必要ありません。
HN:
Fiora & nobody