いや、まいった。
去年の3月14日にイタリア人に
「悟りは部分です」
「悟りは楽勝の翔です」
って言われて私は意味がわからなかったんです。


悟りは全体(気づいちゃってるこれ)からの部分検証であって、部分の一つ一つを「存在しない」と見極めることなんですね。意図的に停止させるのではなくて、見続けるだけで「実在しない」ことを見抜くんです。実在とは別の種類の投影映像を現実と呼んでいること。何が「わたし(真我)」ではないものなのかを一つ一つ見抜いていくんです。


そして、楽勝というのは「一秒もかからないいま」ということで、飛翔の「翔」は非顕現による、非顕現に対するジャンプ(非顕現にしかできないジャンプ)なんです。


私どう考えてもさっぱりで、この意味が通じるまでに一年かかりました。
これ読んでる方はぜひ、ジャンプを間違えないで時間短縮していただければ嬉しいです。


私の場合は、顕現と非顕現という言葉。「現れ」と「現れない」という言葉。
「現れないもの」が「現れないもの」との「関係をもつ」という概念。
愛の感覚はどこから発生するのかがそれでやっと明確になって、誤解がとけました。


人によって何がトリガーになるかわからないです。


大事なことは「気づいている」ことに「気づいている」ことで、
コントロールできる気づき(マインド)の焦点を振り回すのはやめて(放っておく)、
「ただある」ことで、コントロールできないほうの「気づいている」が現れないけど「ある」自分自体に興味をもつことだと思うんです。


気づこう!じゃないんです。


もう仕方なく気づいちゃってる「これ」が、仕方なく気づいちゃってる「これ」にまた仕方なく気づいちゃった。


これがーこれにー、出会った。みたいな。
透明人間が背後霊みたいに誰かの後ろにくっついて過ごしていたんだけれども、
ある日鏡をみて「あれ、私の後ろに誰かいない!?え、なにあれ!?なぜかすべてが愛おしい!!うん?あれ?あれ?誰?」という小芝居があって私は映ってる人じゃなくて、後ろの透明人間だったのねととうとう気づいた。
みたいな。ややこしいです。


ちゃんちゃらおかしいわけです。
多部 未華子さんのこのCMのこの台詞。彼女もグルだったんですね。グル多いな。


子供のころ天国の空気を感じてた。大人になるにつれてこの世界はなんて天国と離れているんだろうと思うようになっていった。離れている感覚が私だった。


分離とは、私のニックネームだった。ちゃんちゃらおかしいわけです。



小島よしおこそ日本一のグル


そんなの関係ねぇ!
そんなの関係ねぇ!


マインドとか!自我とか!
思考とか!
感情とか!人生とか!でも


そんなの関係ねぇ!
そんなの関係ねぇ!


という話になります。
関係あると思ってたら、関係なかった。
きっちり分析してたのに、ぜんぜん関係なかった。


それが覚醒です。
覚醒とは、誤解がとけることです。
「自分が誰なのか」誤解していたら、共有の瞬間にそれがとける。
いつもウェルカム。


なんだ。どんな「いま」にも、あるんじゃん。


それが覚醒です。


だから


あなたの「いま」は愛されている


どうか安心してほしい。そういう祈りに満ちています。


神が無慈悲だって!?
誤解です。


絶対にあなたを見捨てたりしない。
つーか、してない。



おかえりなさい。


そう言いたくて。待ち遠しくて待ち遠しくて。
光の存在みんなであなたの帰還を待っているんです。


今まで書いているように、私に取り憑いたのは死神です。
天使ではありませんでした。


でも、死神は優しかったんです。


すべての兄弟姉妹の挑戦を称えなさい。ただの一人も欠けず、生い立ちからあなたにはとてもつらくてできないような役回りを引き受けてくださっているのです。上げる頭があると思えるのはあなたがその渇きと涙を知らないからです。霊性の道を歩む者とは、渇きに水を与えることができず共に泣き、それでも太陽の眼差しで人を安心させる者のことです。


無知と叡智は同じものです。愛と涙は同じものです。あなたにわかりますか?
と私に問うフィオラは、それまで私が出会ったどんな人よりも優しい人でした。


リアリティとは自由のみです。
愛と歓喜は自由の下に。わたしたちはを描いているんです。



神があなたを見捨てたのではありません。
あなたが見捨てられたという観念を神に押しつけているのです。
それを実現させているのはあなたです。
窓(焦点)が現実そのものです。



質問者 あなたは、実在はひとつだと言います。単一性、統一性は個人の属性です。それでは、実在とは宇宙をその身体とした個人なのでしょうか?


マハラジ  あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。


質問者 私はただ理解しようとしているだけです。あなたは個人、観照者、そして至高なるもの(ヴィアクティ、ヴィアクタ、アヴィアクタ)に関して語りました。純粋な覚醒(プラジニャー)の光は、観照者(ジーヴァートマ)のなかの「私は在る」、マインド(アンタカラナ)を照らす意識(チェタナ)、身体(デーハ)に生気を与える生命(プラーナ)に焦点を合わせています。これらすべては言葉で表現するかぎりはいいでしょう。しかし、私のなかで観照者から個人を区別し、至高なるものから観照者を区別しようとすると、混乱してしまうのです。


マハラジ  個人はけっして主体ではありえない。あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた時間と空間において観照者として現れたのだ。その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡すのだ。


質問者 私が自分を見るとき、この身体をどう使うかについて、私のなかで何人かの異なった個人が互いに争いあっているのを見いだします。


マハラジ  それらはマインドの多様な性癖(サンスカーラ)に相当するのだ。


質問者 私は彼らの間に平和をもたらすことができるでしょうか?


マハラジ  いいや。彼らはまったく反駁しあっているのだ。彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。


質問者 それでも、彼らは皆「私は在る」と言うのです。


マハラジ  なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」たちと彼らの要求から自由になる。「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。それを手放すことはできない。しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分け与えることができる。ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。


質問者 今、私には私が個人ではなく、個人のなかに反映されたとき、それに存在の感覚を与えるものだと理解できました。では、至高なるものについてはどうでしょう?どのようにして私自身を至高なるものとして知るのでしょうか?


マハラジ  意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。源を知るということは、源として在るということだ。あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。それが源であり、無尽蔵の可能性だ。


質問者 源はたくさんあるのでしょうか、それとも、ひとつがすべてのためにあるのでしょうか?


マハラジ  それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにとって低次のものは多数として現れる。


質問者 形や名前はみな同じひとつの神のものなのでしょうか?


マハラジ  これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。


質問者 どのようにして絶対性は体験されるのでしょうか?


マハラジ  それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではない。それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在しているのだ。


質問者 もしそれが源なら、なぜ、そしてどのようにしてそれ自身を現すのでしょうか?


マハラジ  それは意識に誕生を与えるのだ。それ以外のすべては意識のなかにある。


質問者 なぜそれほどたくさんの意識の中心があるのでしょうか?


マハラジ  客観的宇宙(マハーダカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影しては溶解している。いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹き込まれたとき、物質のなかで気づきの反映によって意識(チェタナ)が現れる。


質問者 至高なるものはどのような影響を受けるのでしょうか?


マハラジ  何が、どうやってそれに影響を与えられるというのだろう?水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?至高なるものはすべてを可能にする。それだけだ。


質問者 なぜあることは起こり、あることは起こらないのでしょうか?


マハラジ  原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。原因と結果という二元性は存在しない。すべてはそれ自身の原因なのだ。


質問者 それでは、目的をもった行為は不可能なのでしょうか?


マハラジ  私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。意識のなかではすべてが可能だ。もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。


質問者 自己(ヴィアクタ)と至高なるもの(アヴィヤクタ)との関係は何でしょうか?


マハラジ  自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高なるものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。


質問者 それはつまり、未知はアクセス不可能ということでしょうか?


マハラジ  いいや。至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。


質問者 では、もし私が至高なるものさえも、何も求めないとしたら?


マハラジ  それでは、あなたは死んだも同然だ。あるいはあなたが至高なるものなのだ。


質問者 世界は欲望でいっぱいです。誰もがあれやこれやを欲しています。欲しているものとは誰なのでしょうか?個人でしょうか、あるいは真我なのでしょうか?


マハラジ  真我だ。神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。それらはすべて「私は在る」という感覚に依存しているのだ。


質問者 神聖な欲望(サティヤカーマ)が真我から発しているということは理解できます。それは真我のサッチターナンダ(存在―意識―至福)の側面の表現でしょう。しかし、なぜ神聖ではない欲望もそうなのでしょうか?


マハラジ  すべての欲望は幸福を目指している。欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)があるところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸福になってほしいという衝動が見られる。だが、至高なるものはすべてを超えている。さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。


質問者 どの欲望が適切なのでしょうか?


マハラジ  主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益であり、充分満たされるのだ。


質問者 神聖なものも神聖でないものも、すべての欲望は苦痛をともないます。


マハラジ  それらは同じではない。苦痛もまた同じものではない。熱情は苦痛だ。慈悲に苦痛はありえない。全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。

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