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時計の世界


私たちは時間のある世界で活動している。だが実際は、分離意識を現象化したこの世界に生まれたのは「一時的な意図」であって人生何十年という進行軸とは別のことが瞬間(いま)進行している。


虚空は動かない。あの世が動いている。あの世は故人が活動している世界で、あの世の方が主体であり現実であることを実際に思い出している人はスピリットに関わった実体験がある人ばかりだろう。イタリア人に付きまとわれるまでは、私も信じていなかった。


時計の世界には仕事があり、肉体があり、「ここ(この世界)しかない」という思考にはまってしまうと本来の意識の力もクレアも全て(自主的に)封印されてしまう。


「肉体にこそ」創造力があると誤って信じれば、時間と空間の中に囚われた肉体がそのまま牢獄になる。創造力は虚空にあるのであって、肉体には最初からまったくない。


かと言って大いなる愛の光を忘れて、虚空の創造力を自我が利用する側面に焦点をあてると本末転倒になる。私たちに悲劇、苦労、愛する者との死別が起こるのは基本的に「大いなる愛の光」を意識の中心に据え「させる」ため。据えれば悲劇、苦労、死別自体が止まる。それらは全部観念に過ぎない。


悟りや覚醒を目指す人びとは、大きく二派に別れると思う。
一つは、虚空を思い出せばいいのだから、私は生まれたことも死んだこともないよ、あの世なんかどうでもいいよ派。
もう一つが、個々の魂の成長・発展のために個別のシナリオを描いて人生に参入したんだよ派。


どちらも正しいのだけれど、どちらがより「現実的」かはわかりやすい。
星(魂)の階層は実在する。私はそれをイタリア人に会うまで信じていなかった。


虚空から見れば、すべては夢なんだからどうでもいいとは言えない。
実際にこの世にシナリオを持って「生まれて」いるからだ。
覚醒に関わらず肉体の生が続く以上「シナリオ優先」が現実ということ。


わたしたち(大いなる)光の存在は、本来地球でこんなに長く転生などするつもりはなかったらしい。「気軽に入った」けれども「脱出できない」状態に陥ったのだ。


大いなる光には本来重力は影響を及ぼさない。フィオラが水の大地と呼ぶこの地球の二極性の波に取り込まれてエネルギー域のバランスを崩してしまった(カルマ)光の存在たちは、重力に捕まりそれを解消しない限り脱出できなくなった。その対策本部のようなコミュニティがあの世。


これを魂の成長と呼ぶのか、「転んでいるわたしたち」と呼ぶのかはわからない。
でも、勇気が必要なこの時計の世界で挑戦をつづけるわたしたちのことを皇はこの上なく愛している。


光の存在たちこそ実在なので、すべて彼らに聞けばいい。転生に「はまっている」故人たちももちろん助けてくれるが、私たちと故人たちは似たもの同士で「荷物もち」なのだ。


荷物を捨てることを、覚醒めと呼ぶ。
何が荷物なのかは、光を思い出した瞬間にはっきりわかる。
「全てが愛であることを忘れていること」が魂の荷物であり、人のシナリオだ。


あらゆるものに愛をみるとき、水の大地のシナリオは完了する。



質問者 私が見るには、世界はヨーガの学校であり、人生そのものがヨーガの修練です。誰もが完成を求めて闘っています。ヨーガもまた戦いにほかなりません。いわゆる「一般」の人びとと彼らの「一般」の人生は、何も卑しいものではありません。彼らもヨーギと同じように厳しい努力をし、苦しみます。ただ彼らは真の目的を知らないだけなのです。


マハラジ  いったいあなたの言う一般の人びとがどのようにヨーギなのかね?


質問者 彼らの究極的目標は同じです。ヨーギが放棄(ティアーガ)によって確保するものを、一般の人びとは体験(ボーガ)によって実現するのです。ボーガの道は無意識で、それゆえ反復し、長引きます。一方ヨーギの道は熟考され、強烈で、それゆえより迅速なのです。


マハラジ  おそらくヨーギの期間とボーギの期間は交替するのだろう。まずボーギ、ヨーギ、そしてまたボーギ、ふたたびヨーギと。


質問者 その目的は何なのでしょうか?


マハラジ  弱い欲望は内省と瞑想によって取り除かれる。しかし、強く、深く根づいた欲望は満たされ、その結果は甘かろうと苦かろうと体験されなければならない。


質問者 それでは、なぜ私たちはヨーギに敬意を払い、ボーギを軽んじるのでしょうか?ある意味では誰もがヨーギなのです。


マハラジ  人間的な価値の尺度では、意図的な努力は賞賛されるものと考えられている。実際には、ヨーギもボーギも機会と環境に合わせ、彼らの本質にしたがっているのだ。ヨーギの人生はひとつの欲望、真実を見いだすことに支配されている。ボーギはたくさんのマスターに仕えている。しかし、ボーギはヨーギとなり、ヨーギはひと巡りしてボーギとなるかもしれない。最終的な結果は同じだ。


質問者 意識における完全な逆転と変容である悟りがあるという話を聞くことは、途方もなく重要なことだと仏陀が言われた、と伝えられています。この良き知らせは船荷の綿に火がつくことに匹敵します。ゆっくりと、しかし容赦なくそのすべては灰になるのです。同じように、悟りの良き知らせが遅かれ早かれ変容をもたらすでしょう。


マハラジ  そうだ。まず聞くこと(シュラヴァナ)、覚えること(スマラナ)、そして熟考すること(マナーナ)など、私たちにはなじみ深い分野だ。知らせを耳にした人がヨーギとなる。残りの人たちはボーガを続けるのだ。


質問者 しかし、川が大量の水を集めることで海への道を見いだすように、死ぬために生まれ、生まれるために死ぬという世間的な平凡な人生を生きることは、その生きた総量によって、人を前進させるということに、あなたは同意しましたよ。


マハラジ  世界が存在する以前に、意識は存在していた。意識のなかに世界は存在を顕し、意識のなかで世界は維持され、純粋な意識のなかに世界は消え去る。すべての根底には、「私は在る」という感覚があるのだ。「世界は在る」はマインドの状態であり、二次的なことだ。なぜなら、私は存在するために世界を必要とせず、世界が私を必要とするからだ。


質問者 生きようとする欲望は途方もないものです。


マハラジ  それよりも偉大なのは、生きようとする衝動からの自由だ。


質問者 石の自由ですか?


マハラジ  そう、石の自由、そしてより以上のものがそこにはある。限りなき自由と意識だ。


質問者 体験を積むには人格が要求されるのでしょうか?


マハラジ  今のあなたのままでは、人格はただの障害にすぎない。身体との自己同一化は幼児にとってはいいかもしれないが、真の成長は身体との自己同一化を離れることにあるのだ。通常、人は人生の初期に身体的な欲望から成長し、脱却するものだ。快楽を否定しないボーギでさえも、ひとたび味わったものを熱望したりはしない。習慣と欲望の反復はヨーギとボーギをともに挫折させる。


質問者 なぜあなたは個人(ヴィヤクティ)を重要ではないとして退けつづけるのでしょうか?人格は私たちの存在にとって根本的な事実です。それは人生の舞台全体を占めるものです。


マハラジ  人格とは記憶によって組み立てられ、欲望によって喚起されるただの習慣だということを見抜かないかぎり、あなたは自分自身を、生き、感じ、考え、行動的あるいは受動的で、喜ばされ、苦しめられる個人だと考えるだろう。あなた自身に尋ねなさい。「本当にそれはそうなのか?」「私は誰なのか?」「これらすべての背後とその彼方には何があるのか?」と。そうすれば、すぐに自分の過ちを見いだすだろう。見られることによって消え去るということが過ちの本性なのだ。


質問者 生きることの、生命そのもののヨーガは、いわゆる自然のヨーガ(ニサルガ・ヨーガ)と呼ばれるものです。それはマインドと生命の結婚として、『リグ・ヴェーダ』のなかの原初のヨーガ(アディ・ヨーガ)に記述されているものを思い出させます。


マハラジ  注意深く、完全な気づきのなかで生きられた生は、それ自体ニサルガ・ヨーガだ。


質問者 マインドと生命の結婚とはどういう意味なのでしょうか?


マハラジ  自発的な気づきに生きること、努力のいらない生の意識、己の生に完全な興味を抱くこと――これらがみなそれに暗示される。


質問者 ラーマクリシュナ・パラマハンサの妻であるサーラダー・デーヴィは、彼の弟子たちの行き過ぎの努力をよく叱ったそうです。彼女は、彼らを熟する前に摘み取られたマンゴーに比較して、「どうして急ぐの?あなたが完全に熟し、甘く、芳醇になるまで待ちなさい」とよく言ったそうです。


マハラジ  何と彼女は正しいことか!多くの者たちが、完全な真我実現前のつかの間の体験で夜明けを昼と間違え、過剰な自尊心から彼の得たわずかばかりでさえも台無しにしているのだ。謙遜と沈黙は、どんなに進歩していてもサーダカ(真我の探求者)にとって本質的なものだ。完全に成熟したジニャーニ(賢者)だけが、己に完全な自発性の発揮を許すことができるのだ。


質問者 あるヨーガのアーシュラムでは弟子が光明を得た後、沈黙を七年、十二年、あるいは十五年、または二十五年にわたってまでも守っていくといいます。バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシでさえも教えはじめる前に、彼自身二十年もの沈黙を守ったのです。


マハラジ  そうだ。内なる果実は熟さねばならない。それまでは戒律を守り、気づきのなかに生きることは必須となる。徐々に修練はより微妙になっていき、最後にはまったく形のないものとなる。


質問者 クリシュナムルティも気づきのなかに生きることを語っています。


マハラジ  彼はつねに究極を直指している。そうだ。あなたの言うとおり、究極的にはすべてのヨーガは意識(花嫁)と生命(花婿)の結婚であるアディ・ヨーガに行き着く。存在と意識(サット-チット)は至福(アーナンダ)のなかで出会うのだ。なぜなら、至福が現れるにはそこに出会いが、接触が、二元性のなかでの統合の主張がなければならないからだ。


質問者 ニルヴァーナ(涅槃)を達成するには、人は生きている存在へと進まなければならない、と仏陀もまた言っています。意識は成長のために生命が必要なのです。


マハラジ  世界そのものが接触だ。世界はすべての接触の全体が意識のなかで実現されたものなのだ。魂が物質に触れて意識が起こる。この意識が記憶と期待に汚されるとき、束縛となる。純粋な体験は束縛しない。体験が欲望と恐れに捕らえられて不純になり、カルマをつくり出すのだ。


質問者 統合のなかでの幸福がありえるのでしょうか?すべての幸福は必然的に接触を暗示します。それゆえ、二元性を生みだすのではないでしょうか?


マハラジ  葛藤をつくり出さないかぎり、二元性には何の問題もない。争いのない多様性と多彩性は喜びだ。純粋な意識のなかには光が在る。暖かさには接触が必要だ。存在の統合の上に愛の統合がある。愛が二元性の意味と目的なのだ。


質問者 私は養子です。実の父を私は知りません。私の母は、私が生まれたときに亡くなりました。子供ができなかった私の養母を喜ばせるために、養父が私を養子にしたのです。ほとんど偶然の出来事です。彼は純朴な人で、トラックの所有者であり運転手です。母は主婦をしています。私は今二十四歳で、この二年半の間、落ち着かず、探し求めながら旅をしてきました。私は良き人生、神聖な人生を送りたいのです。どうしたらいいでしょうか?


マハラジ  家に帰って父親の仕事を引き継ぎ、年老いた両親の面倒を見なさい。あなたを待っているだろう女性と結婚し、誠実に、純朴に、謙虚に在りなさい。あなたの徳を隠し、静かに生きるがいい。五感と三つの質(グナ)があなたにとってヨーガの修練の八段階だ。そして「私は在る」が偉大な真言(マハー・ヴァーキャー)だ。あなたに必要なことはすべて、これから学ぶことができる。注意深く在り、絶え間なく探求しなさい。それだけだ。


質問者 もしただ自分の人生を生きることで解放されるならば、なぜ皆解放されないのでしょうか?


マハラジ  すべての生きるものたちは解放されている。あなたが何を生きるかではなく、どう生きるか、それが問題なのだ。真我の実現の概念がもっとも重要だ。そのような可能性があるということを知るだけで、その人の全視野が変化する。それはおがくずの山に火をつけるようなものだ。すべての偉大な師たちは皆そうしたのだ。真実の火花が偽りの山を焼き尽くす。その逆もまた真実だ。真実の太陽は、身体との自己同一化という雲の背後に隠されてしまうのだ。


質問者 この悟りの良き知らせを広めることは、とても重要なことのようです。


マハラジ  そのことを聞くということ自体が、悟りを約束している。グルに出会うこと自体が解放の保証なのだ。完全なるものは生命を与え、創造的だ。


質問者 賢者は「私は実現した」と考えることがあるのでしょうか?人びとが彼を祭りあげることに彼は驚かされるのでしょうか?彼は自分自身を普通の人間と見なしているのではないでしょうか?


マハラジ  普通でも特別でもない。ただ気づいていて、愛情深いのだ――強烈に。彼は自己定義にも、自己同一化にもふけることなく彼自身を見る。彼は世界から離れた彼自身を知らない。彼が世界なのだ。彼は絶え間なく自分の富を分け与えるとても裕福な人のように、完全に彼自身を除き去る。彼は裕福ではない、なぜなら彼は何ももっていないからだ。彼は貧困ではない、なぜなら彼は豊富に与えるからだ。彼はただ無所有なのだ。同様に、賢者は無我だ。彼は何とであれ自己同一化する能力を失ったのだ。彼は場所をもたず、時間と空間を超え、世界を超えている。言葉と思考を超えた者、それが彼なのだ。


質問者 私にとっては深い神秘だとしか言いようがありません。私はただのシンプルな人間です。


マハラジ  深く、複雑で、神秘的で、理解し難いのはあなたのほうだ。あなたに比べれば、私はシンプルそのものだ。私は内面と外面、私のものとあなたのもの、善と悪といったいかなる区別もない、あるがままだ。世界であるものが私で、私であるものが世界なのだ。


質問者 人がそれぞれ自分自身の世界をつくり出すとは、いったいどのように起こるのでしょうか?


マハラジ  数人の人が眠るとき、それぞれが彼ら自身の夢をみる。多くの異なった夢という疑問は目覚めとともにだけ現れ、それらはすべて夢、あるいは何か想像されたものとして見られたときに消え去る。


質問者 夢でさえ根拠があります。


マハラジ  夢は記憶のなかにあるのだ。たとえそうだとしても、思い出されたものとは、もうひとつの夢にほかならない。偽物の記憶は、偽物をもたらすことしかできない。記憶自体に何も間違ったことはない。偽りはその内容にあるのだ。事実を覚え、意見は忘れなさい。


質問者 何が事実なのでしょうか?


マハラジ  純粋な気づきのなかで、欲望と恐れから影響を受けずに知覚されたことは事実なのだ。


* 訳注1 ニサルガ・ヨーガ 付録I参照。
* 訳注2 ラーマクリシュナ・パラマハンサ Ramakrishna Paramahansa(1836―1886)
ベンガル地方出身の偉大なる聖者。ビジョンを通しての直接体験によって、世界中の主要な宗教が本質においてひとつであることを解き明かした。スワミ・ヴィヴェーカナンダの師でもある。
* 訳注3 ヴァガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ Bhagavan Shree Ramana Maharsh(1879―1950)
南インド、カミール・ナードゥ州のティルヴァンナーマライにある、聖なる丘アルナーチャラの麓にてその半生を送った、現代においてもっとも広く認識されている聖者。彼の沈黙の教え、「私は誰か?」という問を用いた明確で革新的な真我探求の方法と彼の聖者としての生涯は、世界中の信奉者を引きつけている。
* 訳注4 ジッドゥ・クリシュナムルティ Jiddu Krishnamurti(1895―1986)
南インドのチェンナイ近郊に生まれる。一四歳のとき、未来の「救世主」として神智学協会のリードビーターによって発見され、英国にて英才教育を受ける。二七歳のとき神秘体験を持つ。後に救世主であることを否定し、精神的指導者、師といった一切の呼び名を拒絶して、ひとりの自由人として世界中を巡って講話をした。
* 訳注5 ヨーガの修練の八段階 アシュターンガ・ヨーガ Ashtanga Yoga
(一)ヤマ 非暴力、真実、不盗、独身生活、無所有といった善行の修養。
(二)ニヤマ 善行の尊守。
(三)アーサナヨーガの姿勢。
(四)プラーナーマーヤ 呼吸の制御を通しての修練。
(五)プラティヤーハーラ 思考の制御。
(六)ダーラナー 意識をブラフマンドラ、頭頂点に集中させる修練。
(七)ディヤーナ 瞑想。
(八)サマーディ 瞑想の修養を通して得る三昧状態。ここでは、マハラジは五感と三つのグナ、つまり視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚の五感とサットヴァ、ラジャス、タマスの三つのグナがヨーガの八段階に代わると示唆している。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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