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何かに取り組むときの力の出所はおおまかに分けると2種類です。


1つは、私から全力を出します。
いま私が私だと思っている私、肉体を持っていたりだとか、精神的な癖がああでこうで、こんな実績と失敗談と得意技があって、とか。


この私が頑張る、それは何も間違っていません。ただ力の出し方にはもう一つあります。


その2つ目は、私がいないことによって一切のこだわりがなく、方向性や意識の指向性をもたない意識、「全体性」です。


方向性をもっていないので、これは誰が何をどうするか事前に予測がつきません。
自分と呼ばれるこの人すらどう動くかわかりません。


すべての力を抜いたとき、水の中だったらぷかぷか浮くかもしれません。
沈むかもしれません。浮かんでも沈んでもそれを問題視する者はいません。


問題視がないので問題がありません。
同一視がないので私がありません。


あるがまま。そしてあるがままだと認識する者がいないので何もありません。


あえて言葉にしていくなら無と愛です。
言葉にする必要もありません。


ただこれを伝達するとき、その必要性がある場合は言葉にする努力は意味をもつ場合がありますし、意味がない場合もあります。


「今この瞬間」は耳タコですが、「これ」はすごく伝達しにくいです。
伝達の成功率は50%よりは低いですよね。


だから何回も何回も伝達のためにみんなが言葉を尽くします。
そういう本はたくさん出ています。


エックハルト・トールが「愛」だけは先には味わえない。
「今この瞬間のパワー」という入り口を通って、しばらくしてから「愛」が感じられるようになると言っていましたが、確かに絶妙な説明です。


愛というのは結局、「軽さ」が最後の門番なんだとわたしは思うんですね。


肩の荷を降ろさなきゃいけないんです。


むずかしいこと、やらなくてはいけないこと、運ばなくてはいけないこと、そういったものを「私」ごと海に捨てるんです。


そうするとまさに突然「あっ」これは今までもずっとあったし、これからもずっとある!
という全体性を思い出します。


全然、たいしたものではありません。
ただ、すごい特徴が一つだけあります。
「これから先ずっと、どこにいこうともわたしと一緒についてきてくれる」
という常在性です。最初からそれはあったんですが、「私」の目では気づけなかったというだけの種明かしです。


その全体性というスクリーンの上に誰かが概念の絵を描いていただけなんです。


そして、その誰かは「嫌がることは正当だ」と思っていたんです。
既に神がつくった創造物を指さして「嫌がる」んです。
あれキライ、あれもキライ、いなくなっちゃえばいいのに。


ところが全体性に気づいたあとは
その「嫌がる」メカニズムの滑稽さに気づきます。
嫌がってもいいけど、「これからは逃げられない」という厳然たる事実です。


どうして逃げられないのか?
「既にあることに気づいてしまった後だから」です。


気づきとは現実です。
気づき=現実


私はそこから現実をコントロールしようとします。
怖れているから。丁寧に書くと、「怖れに気づいた後だから」です。
怖れ→怖れをなくせるかもしれない(想念)→コントロール願望(欲望)です。


中間の「怖れをなくせるかもしれない(想念)」が極めて嘘っぱちなんですね。


もう怖れがあるんです。事実をよく調べるとわかりますが、手遅れなんです。
なくせるかもしれないは幻想です。


この幻想から逃げることをやめたとき何が起こるでしょうか。


怖れと、ただともにあることの結果を目撃するようになります。


無策です。


わたしたちは万策尽き果て、「無策」に陥るんです。


怖れは無策と出会い、今までとはまったく違った姿を見せ始めます。


わたしたちは一体何から逃げ回っていたんでしょうか。



時代はハン・ヒョジュです。



この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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