こだわってない(叡智)です、でも親密(愛)です。の意味
(ゆるい、軽い)
愛と叡智は二つではなく、一つに統合されます。
愛から始まったら叡智と統合され、
叡智から始まったら愛と統合されます。
愛は親密ということです。
叡智は知る(覚知=在ることで知る)ということです。
これは別々の言い方をしているだけでまったく同じものを指しています。
この叡智は、過去の知識にまったくこだわっていません。
荷物としてそれらを引きずるつもりもありません(活用はしますけれども)。
覚知は今この瞬間にあるのであり、今この瞬間はどこにも移動せず常にあるので持ち運ぶ必要がないからです。
そのため、愛と叡智は同じ特徴
ゆるさと軽さにつながります。
真剣ではないということではなく、
深刻さがなく、意識が軽いということです。
何も持ち運んでいないことでこの特徴が出てきます。
夢の中で夢だと気づいた後の行動が、たとえ今までと同じ行動であっても夢だとわかっている(私という余計な一手間を演技する必要がない)ので「意識的に軽くなる」わけです。
手品による集団幻覚からの解放(種明かし)のようなものです。
「私」がいるとしか認識できなかったのに、それが錯覚であることに気づいた。
「私」が錯覚であるなら人生の大前提が崩れます。
苦しむ私がいない、努力する私がいない、決意する私がいないということです。
歯の痛みのような痛みはあります。
でもそれを長く押し止める「抵抗主体」がない。
そのため痛みは自然のまま流れ、過ぎ去ります。
ですから痛みは苦しみにはつながりません。苦しみとは抵抗の錯覚による実際のエネルギーロスのことです。
そして肝心の意識の焦点は、ほんとうのわたしたち「真我(大いなる愛の光)」に向きます。
兄弟姉妹に対する差別と区別はもはや存在できません。
マインドがラベルを貼る「前に停止できるようになったから(停止している真我を思い出したから)」です。
このとき初めて分離なき愛に気づきはじめます。
思い出すのです。
愛そうとする必要はなかったのだ、
もうすべてを愛しているのだから、ということです。
愛とは、わたしはあなたとともにある。
わたしたちは無限の親密さです。常に一蓮托生です。
そして、神(大いなる愛の光)がわたしを愛してくれているように、
わたしも神を愛していることに気づいたとき、
今日一日とは恩寵であり、神への供物、捧げもの、真のプレゼントになります。
神がわたしに贈り、わたしが神に贈ります。
肉体を使った冒険の旅路は、愛の円環であったことを明かすのです。
バクテリアを顕微鏡で見ようとするときの視野があります。
あなたは倍率を上げながら、バクテリアの一群が視界に入るよう調整していきます。
あなたは視界調整をしているものの、バクテリアの肉を持っているわけではありません。
見ているのです。
スクリーンのみが存在しているという概念は、こう理解してください。
あなたは万能のスクリーンです。何でも映し出せます。
ですが「手足」はないのです。
ただ「視界調整」が無限にできるのです。
あなたが今の人生を「手足なし」で「視界調整」しているとすると、人生の選択についての考え方はどのように変容するでしょうか。
あなたはこの世界に「触れて」いません。だから安全なのです。
肉体で何かをなすのではありません。行動の前の意識に注意を払ってください。
雲間から一気に数十の光が差し込むように
時代がパッと明るくなった気がします。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody