個室感と開放感
分離感を「感じようとする」か愛を感じるか、どちらかしかない
分離感を感じようとするのが妨害です。
部屋に二つのベッドがあって、間に敷居をして個室感を出します。
あるのは「個室感」であって、個室ではありません。
個室感を感じながら、ここは完全な個室だ!と思い込むのは自由です。
でも、個室だから寂しいな、と感じるのは自己責任です。選択の責任です。
分離の敷居は「想念」です。
念を「今+心」と書くわけですが、今の心(マインド)の動きが念です。
今とは、気づきそのものであり、念の動きにも気づいています。
今が全体なら、念は今の一部分ということですね。
想念の敷居によって、個室感に囚われ、しかも寂しいと感じる。
これは完全な自作自演のドラマです。
念をわたしそのものだと同一視することをやめれば、
念ではなく、今がリアルであり、個室感から解放されれば寂しさではなく、愛を感じるようになります。一種の開放感、一体感、親密さです。
私が+愛しているのではありません。
それは個室感を維持しながら、同時に開放感を感じたいという矛盾にしかなりません。
私がない=愛している(対象なくすべてを愛している)
という構造が、開放感です。
つまり逆に言えば、
(対象なく目に映るすべてを)愛しているなら「私」は維持できなくなるのです。
アプローチはどちらからでも構いません。
個室感を維持しようとしないこと。それが要点です。
わたしたちが全体としてやろうとしているのは、
一人一人の人生を直列につなぐのではなく、すべて同時並列にやることです。
花燃ゆのオープニングの花が咲き乱れるようにです。
ですので人生は、一人一人の究極のわがままを叶えるためにあります。
そう追求するために個室感を創り出しています。
その究極のわがままは、わたしたちの本質が愛であることから、
愛に沿わないと満足できないという特徴があります。
個性は最大限に活かすけれども他人を傷つけないこと、
他人を傷つけないけれども個性を最大限に活かすこと、
そういう活きる人生を同時並列に展開して、地球の振動数と調和することがいま求められています。
今日をありがとうございました。
HN:
Fiora & nobody