わたしは誰か?という問いの意味は、わたしは○○である、わたしは何者である、という定義が、真実ではないからです。


わたしは人間である。
名前と形が与えられています。


この定義、この名前と形は、想念以外の何物でもありません。


愛そのものである=想念ではない


ということです。想念は境界線であり、物事を多数に分割する線です。
ですから
愛=無想
です。たまたま想念の通過がないという意味ではなくて、
想念を超越した位置
にあるのが全体愛です。この全体愛が静寂です。


想念を超越した位置を見ている(ただ在る)ことがS(スプラナ)です。


想念の奥側、常に超越したところに静かな愛があります。
この愛は、「わたしはあなたとともにある」とだけ沈黙の中で語りかけています。


変な比喩を思いつきました。
水面があって、昆布が次々に流れてきているとします。
水面の10センチ下に、「在る」があります。


在るはいつも昆布の流れを見ているのですが、自分が昆布であるとかないとかは思っていません。考えていませんし、昆布以外のものになりたいとも思っていません。
ただ、在り、ただ、気づいています。


このただ「在る」が愛です。


昆布は悩みでもあります。
でも苦しみは昆布にはありません。
苦しみは昆布と「在る」の位置が10センチズレていることに気づかないことにあります。


この早とちりをしている「何者か」がいるんです。
それがマインドです。「マインドの機能としての同一視」です。


苦しみ=同一視
です。


ですから、マインドを排除するか、マインドの機能を排除するか、同一視を排除すると苦しみは終わります。


それは単純に今の心(マインド)
念を止めることです。


念を止めることは念を超越した位置を見ることです。
念を超越した位置を見ることは「私の出現を止めること」です。


私の出現を止めると同時に、念が止まります。


念はハサミであり、必要ないときに出しっぱなしにしているから問題になります。



猫の道と猿の道


母猫は子猫の首を咥えてぷらんぷらんさせながら進みます、これが猫の道です。
子猿は母猿に全力でがっしりとしがみつきながら進みます、これが猿の道です。


ぷらんぷらん、と、がっしり、は
恩寵です。それは個性です。


どちらの道も祝福されています。



ハンカチを見ずに綿を見ます。
綿を見るとは、「ハンカチを見ない」ことです。


今日をありがとうございました。
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