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思考そのものを理解する


肝要なことは、思考そのものを理解することであって、思考によって愛を捕捉しようと試みることではない。思考の否定によっては、愛はもたらされない。思考の深い意義が十分に理解されて初めて、思考からの自由があるのだ。そしてこのためには、空虚で浅薄な主張ではなく、深甚(しんじん)なる自己認識が絶対に必要なのである。反復ではなく瞑想が、定義ではなく気づきが、思考の正体をあばくのである。思考の正体に気づき、そしてそれを刻々に体験し抜かないかぎり、愛はありえない。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


愛と思考


あなたは、では愛とは何なのか、と問うことだろう。愛は、思考が介在しない存在のありようである。しかし、愛を定義することは、まさに思考過程であり、それゆえそれは愛ではない。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


思考は愛に行き着かないし、愛を育てない


思考過程は、常に愛を否定する。感情のもつれを伴うのは思考であって、愛ではない。思考は、愛に対する最大の障害である。思考は、あるがままの実相とあるべき仮相との間の分断をもたらし、そして道徳はこの分断にもとづいている。しかし、道徳的な者も不道徳な者も、いずれも愛を知らない。社会関係を結合させるために精神によって構築されたこの道徳体系は、愛ではなく、それはセメントのそれのような硬化の過程である。思考は愛に行き着かないし、また愛を育てない──なぜなら、愛は、庭の植物のような具合に育成できるものではないからだ。愛を育成しようとする願望こそは、まさに思考の営みなのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


静謐さはあるがままの実相を理解することによって生まれる


うわさ話は、落ち着きのない精神の表現であるが、しかしただ単に黙して語らないことは、静謐な精神の徴(しるし)ではない。静謐さは、禁欲や克己をもってしては生まれない──それは、【あるがまま】の実相を理解することによって生まれるのである。あるがままを理解するには、即座の気づき(アウェアネス)が必要である──なぜならば、あるがままの実相は、決して静止していないからである。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


噂話


うわさ話は、熱烈さと真剣さのまさに正反対である。誰か他人について好意的に、または悪意をこめて話すことは、自分自身からの逃避であり、逃避が落ち着きのなさの原因である。逃避は、まさにその性質上、落ち着かないものである。他人の事件についての関心は、ほとんどの人間の心をいっぱいにしているように思われる、そしてこの関心は、ゴシップ欄、殺人事件や離婚等々の解説といったものを載せた無数の雑誌や新聞を読むことに、おのずから示されている。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


一体化を助長するのは恐怖である


刻々に体験するためには、一切の一体化が終わらねばならない。試行するためには、恐怖があってはならない。恐怖は体験を妨げる。一体化――他者との、集団との、イデオロギー等々との――を助長するのは恐怖である。恐怖は、その性質上、抵抗や抑圧を招く。しかるに、自己防衛の構えをしていて、どうして海図なき大洋にあえて船出できるだろうか? 自己の諸相への貫入の旅に出ないかぎり、真理または幸福は決してやってこない。錨を降ろしていては、遠方まで旅することはできないのである。一体化は、一種の逃避である。逃避は保護を必要とし、そして保護されるものは、間もなくこわされてしまう。一体化は、それ自らの上に破壊を招き、かくしてさまざまな一体化の間で、果てしない葛藤が続くのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


一体化は所有を意味する


われわれが他者と一体化する場合、それははたして愛の徴(しるし)だろうか? 一体化は試行を意味するだろうか? 一体化は、愛と試行に終止符を打つのではないだろうか? 一体化は、疑いもなく所有であり、所有権を主張することである。そして所有は、愛を否定するのではないだろうか? 所有することは安心することであり、所有は防衛であって、繊細な感受性を損なうものである。一体化のうちには、粗雑、精妙の別を問わず、抵抗がある。しかるに、愛は一種の自己防衛的抵抗だろうか? 防衛のあるところに愛があるだろうか?
愛は繊細で傷つきやすく、柔軟で、受身的なものである。それは最高度の鋭敏さであるが、一体化は逆に鈍感さを助長する。一体化と愛とは、相容れないものである。なぜなら、その一方は他方の芽を摘み取るものであるからだ。一体化は、本質的に、精神の自己防衛または拡張のための思考過程であり、そして何かになるためには、精神は、抵抗し、防衛し、所有しまたは見捨てていかなければならない。この、何かになろうとする過程で、精神または自己(セルフ)はより強固で有能になっていく。しかし、これは、愛ではない。一体化は自由を損う。しかし自由においてのみ、最高の形の鋭敏さがありうるのである。
試行するためには、一体化の必要があるだろうか? 一体化という行為こそはまさに、探究、発見を終焉させてしまうのではないだろうか? 自己発見の試みがないかぎり、真理によってもたらされる幸福はありえない。一体化は発見に終止符を打つ――それは別の形をした怠惰なのだ。一体化は代行経験であり、それゆえ多くの虚偽である。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


一体化


あなたはなぜ自分自身を、誰か他人や、あるいは集団、国と一体化させるのか? なぜあなたは、自分自身のことをクリスチャン、ヒンドゥー、仏教徒などと呼ぶのか? あるいはまた、なぜ無数にある党派の一つに所属するのか? 人は、伝統や習慣、衝動や偏見、模倣や怠惰を通じて、宗教的、政治的にあれこれの集団と自分自身とを一体化させる。この一体化は、一切の創造的理解を終焉させ、そうなれば人は、政党の首領や司祭、あるいは支持する指導者の意のままになる、単なる道具にすぎなくなってしまうのだ。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


「なること」と「あること」


【いま】の中に一切の時間があり、そして【いま】を理解することがすなわち、時間から自由になることなのである。何かに【なろうとすること】は、時間を、悲嘆を持続させることである。【なること】は、【あること】を含まない。【あること】は、常に現在におけることであり、【あること】は、変容の至高形態である。【なること】は、限定された持続にすぎず、根源的変容は、ただ現在のうちに【あること】のうちにのみある。


【『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】



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