勘です。たぶん今が、ここ数十年で一番大切な時期です。
過去数十年、未来数十年の交差点、この今が、振動数を決める計画の時です。
じゃあ間違いのないようにしなきゃ?
間違いなんてないんです。
自分と他人への思いやりに準じていることだけを条件に、
自分が最も満足できる、魂から好きな道を選びます。
はっきりしているのは、自分を知ることができるのは自分だけということです。
この自分を知りに生まれたのに、他人を知ろうとしたらもったいないです。



援助と権威


もし誰かがあなたを助けてきて、それゆえあなたが彼をあなたの権威にしてしまうなら、そのときにはあなたは、それ以上のすべての助け──単に彼からのだけでなく、あなたのまわりのすべてのものからの──を妨げてしまうのではないだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


われわれは特定の方向からの助けにのみ心を開く


なぜわれわれは、ある特定の方向からの助けにのみ心を開き、他のすべての方向には閉ざしているのだろう? 意識的または無意識的に、あなたは私にあなたの愛、あなたの同情を与えるかもしれない。あなたは私のさまざまな問題を理解するのを助けてくれるかもしれない。しかしなぜ私は、あなたこそは私の唯一の助けの拠所、唯一の救い主だと主張するのだろうか? なぜ私は、あなたを私の権威に築き上げてしまうのだろう? 私はあなたに傾聴する。私はあなたの言うすべてのことには注意を払うが、しかし私はほかの人の発言には無関心であるか、または耳を貸さない。なぜだろうか? これが問題点ではあるまいか?


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


人は権威者にのみ耳を傾ける


われわれは、自分たちが助けられているのかどうかの証拠を求めているのだろうか? 医者、子供や通行人の笑顔、関係、風に吹き払われる一枚の葉、気候の変化、教師やグルすらも──これらすべてのものは、助けになりうる。機敏な人間にとっては、至る所に助けがある。しかしわれわれの多くは、ある特定の教師や書物以外のあらゆるものに対して眠っており、そしてそれがわれわれの問題なのである。あなたは、私が何かを言うと注意を払うのではないだろうか? しかしほかの誰かが同じことを、たぶん異なった言葉で言うとき、あなたはつんぼになる。あなたは、あなたが権威だとみなす者にのみ耳を傾け、それ以外の人間が語るときには機敏でない。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


祈りが真理をもたらすことはない


真理、あるいは呼び方はどうであれ、は、精神によって見出すことはできない。思考はそれを追い求めることはできない。それに至る道はない。それは、崇拝、祈り、または犠牲によってもたらすことはできないのだ。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


慰められようとする衝動が教会をつくり上げる


神は、教会の中に、それともわれわれの心の中に見出されるべきものだろうか? 慰められようとする衝動は幻想を生むもとになる。教会、寺院、そしてモスクを創り上げるのは、この衝動なのだ。われわれは、それらのものに、あるいは全能の国家に我を忘れ、その間に真実なる物は通り過ぎてしまう。重要でないものが、すべてを食い尽くすものになる。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


経験は常に過去を強化する


思考は、これまであったものの反応、記憶の反応である、違うだろうか? 記憶は、伝統、経験であり、そして新しい体験へのその反応は、過去の結果である。それゆえ、経験は常に、過去の強化なのだ。精神は、過去の、時間の結果である。思考は、多くの昨日の産物なのだ。思考がそれ自身を変えようとし、これ、またはそれになろう、またはなるまいと努めるとき、それは単に、異なった名前の下でそれ自身を永続させるだけである。既知なるものの産物なので、思考は決して未知なるものを体験することはできない。時間の結果なので、それは決して時間を超越したもの、永遠なるもの、を理解することはできない。真なるものがあるためには、思考はやまねばならない。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


思考は存続の過程


存続するために、われわれは考えることを強いられる。思考は存続の過程なのだ。それが個人のであれ、あるいは国家のであれ、思考すること、すなわちその最も低い、あるいは最も高い形での願望は、常に自己閉鎖的で、条件づけるものでなければならない。われわれが宇宙について考えようと、われわれの隣人たちのこと、われわれ自身のこと、あるいは神について考えようと、われわれのすべての思考は、限られており、条件づけられているのではないだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


積極的な教えが恐怖に連続性を与える


人は既知なるものの中に飛び去るのだが、既知なるものとは信念、儀式、愛国心、宗教的教師たちの慰藉的な決まり文句、司祭たちの確信、等々である。これらは順次、人と人との間に葛藤を引き起こし、それゆえ問題は、ある世代から別のそれへと引き継がれていく。もし人が問題を解決しようとするなら、人はその根源を究明し、そして理解しなければならない。この、いわゆる積極的教え、共産主義を含む諸宗教の、「これこれを考えるべきこと」式の教えは、恐怖に連続性を与える。それゆえ、積極的教えは破壊的なのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


指導を求めるのは恐怖のはずみである


「しかし、自分自身、または他人を権威、救世主にすることなく、指導し、または指導されることは可能ではないでしょうか?」
われわれは、指導されようとする衝動を理解しようとしているところである、違うだろうか? この衝動は何なのだろうか? それは恐怖の結果ではないだろうか? 不確かなので、自分のまわりの一時性を見るので、何か確かなもの、永続的なものを見出そうとする衝動がある。しかしこの衝動は、恐怖のはずみなのだ。恐怖とは何かを理解する代りに、われわれはそれから逃避する、そしてまさに逃避すること自体が恐怖なのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


安全への願望が戦争の原因


われわれは権威と教導とに慣れている。教導されようとする衝動は、安全でいたい、保護されようとする願望から湧き出る。これはわれわれのより深い衝動の一つではないだろうか?
「そうだと思いますが、しかし保護と安全なしには、人は……」
どうかその問題を調べることにし、早合点しないようにしよう。安全であろう――単に個人としてだけでなく、集団として、国家として、さらには民族として――とするわれわれの衝動のゆえに、われわれは、ある特定の社会の内部および外部で、戦争が大きな関心事になるに至った、そういう世界を築き上げてしまったのではないだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


凡庸な精神


凡庸さの要因の一つは達成しよう、結果を持とう、成功しようとする衝動ではないだろうか? そしてわれわれが創造的になることを欲するとき、われわれは依然としてものごとを浅薄に扱っているのではないだろうか? 私は【これ】だ、そしてそれを私は【それ】に変えようと欲する、それゆえ私はいかにしてと尋ねる。しかし創造性が、何か追求されるべきもの、達成されるべき結果であるとき、精神はそれをそれ自身の状態へと引き下げてしまったのだ。われわれはこの過程を理解しなければならないのであって、凡庸さを何かほかのものに変えようと試みてはならない。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


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