過去につながっている人たちといまにつながっている人たちの2種類がいる
過去派
いま派
過去派とはつまり思考への自動的同一視の癖が抜けていない人たちのこと。
いま派はその癖が抜けて今を生きている人たちのことです。
過去派は基本的にいつも不満足です。
満足の源から遮断されている(遮断は錯覚ですが、錯覚によって実際に気の上書きが起こっている)からです。
そして「不満足そのものに対して反射的に防衛行動をとる一連のパターン」が発達しています。
たとえば寂しいから人の興味を引こうとしたり、
劣等感を感じているから攻撃性を発揮したりします。
これらは普通のことで、それ自体は何も悪くありません。
その場で気づく、ただそれだけで本来すぐに解決する(=自然な成長)ものです。
これを「他人と環境のせいにする」ことによって、成長ができなくなり、
問題は繰り返されるようになります。
人間は全員未熟です。
もし未熟でないのなら、この地球上にとどまることはできません。
全員未熟だからこそ手をとりあい、励ましあい、本来の成長に邁進すればいいわけです。
私は完熟で、オマエは未熟だ!と発言する「超未熟児」が中にはもちろん出現します。
ただ「超未熟児」をもし見かけたら、その方に対してはむしろ愛情が湧くはずであって、怒りが湧くならこちらも「超未熟児」ということです。
超未熟児戦争はやめましょう。
わたしたちは今後の時代つねに、批判ではなく「愛している」を選ばなくてはなりません。
地球と時代を癒していかなくてはならないからです。
ただ在り、ただ歩みます。
いま派が協力して、時代の困難に立ち向かいます。
両方に気づくこと
単に部分的に鋭敏であることは、麻痺していることである。美を受け入れて、醜に逆らうことは、何の感受性も持たないことである。沈黙を歓迎して、騒音を拒むことは、全的ではないことだ。鋭敏であることは、沈黙と騒音のうちの一方を追い求めて他方に逆らうことなく、両方に気づくことである。それは、自己矛盾なしにあること、全的であることなのである。
【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】
探求は幻想である
「では、探求は幻想なのでしょうか?」
多くの幻想のうちの一つである。精神が動機を持っていないとき、それが自由であって、いかなる切望によっても駆り立てられていないとき、それが完全に静謐であるとき、そのとき真理は、【それ自体としてある】。あなたは、それを追及する必要はない。【あなた】がそれを追求したり、招き寄せることはできないのだ。それは、向うからやってこなければならない。
【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】
真理を見出すためには信仰も不信仰もあってはならない
真理、または神を見出すためには、信仰も、不信仰もあってはならない。信者は、不信仰者と変わらない。どちらも真理を見出すことはないであろう。なぜならかれらの思考は、かれらの教育によって、かれらの環境によって、かれらの文化によって、そしてかれら自身の希望や恐怖、喜怒哀楽によって形作られているからだ。これらすべての条件づける影響から自由ではない精神は、どうあがこうと決して真理を見出すことはできない。
【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】
明晰さの始まり
しかしもしあなたが、あなたがそのために尽くしてきたすべてのものが愚劣で、無駄であり、それはよりいっそうの不幸に行き着くにすぎないということに本当に気づけば、そのときにはすでに明晰さの始まりがある。自分が北に行くつもりのときに、実際には南に向かっていたことをあなたが発見なされば、その発見それ自体が、まさに北への転換なのではないだろうか?
【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】
真の革命
このパターン内では、変化は、それがいかに革命的に見えようと、少しも変化ではない。患者が大手術を必要とするとき、単に徴候を和らげるのは馬鹿げたことである。
【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】
あなたは休みない活動の只中で腐敗してゆく
「しかし私は、ただじっと坐ったまま、腐っていくわけにはいきません!」 あなたは今、あなたの休みない活動の只中で腐敗しつつある。そしてもしも、自己修養に余念のない隠者のように、あなたがただじっと坐りながら、内面的には欲望で、あるいは野心と羨望のあらゆる恐怖で燃えていれば、あなたは衰弱し続けることだろう。腐敗は体面とともに生まれる、というのが真相なのではあるまいか?
【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】
成功の梯子
「人は、責任ある地位を占め、刻苦勉励して頂上に登るかもしれませんが、しかし内面的には人は死んでいるのです。もしあなたが、われわれの間のいわゆる偉人――その言動や演説についての報道を載せた新聞に、毎日名前の出る人物――たちに、かれらは本質的に鈍感で愚劣だと告げたら、かれらはぎょっとすることでしょう。しかしわれわれ他の人間と同様、かれらもまた萎れ、内面的に堕落していくのです。なぜでしょうか? われわれは道徳的で、大層立派な生活を送るのですが、しかし目の奥には何の炎もありません。われわれの中には、何一つ自分自身のために得ようとしていない人間もいます――少なくとも私は、彼らはそうしていないと思うのです――が、にもかかわらず、われわれの内面生活は、潮が引くように衰弱しています。知る知らぬにかかわらず、また大臣専用室にいようが、献身的奉仕家のがらんとした部屋にいようが、精神的(スピリチュアリー)には、われわれは、片足を墓場に入れているのです。なぜなのでしょうか?」
それは、われわれがうぬぼれによって、成功と達成のプライドによって、精神にとって大きな価値を持っているものごとによって詰まっているからではないだろうか? 精神が、それが蓄積したものによって押しひしがれているとき、心は衰弱する。誰もかれもが成功と認知の梯子を登ろうとしているというのは、非常に不思議ではないだろうか?
【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】
ネパールで大地震が発生しました。
現時点で死者は7000名を超えているとのことです。
祈ることしかできませんが、多くの被災者のご冥福を切に祈ります。
今日をありがとうございました。
HN:
Fiora & nobody