知識は形を変えた所有である


知識は別種の所有であり、そして知識家はそれで満足する。彼にとって、それは目的それ自体なのだ。彼は――少なくともこの人物はそうだった――、もしも知識を世界中に広められれば、普及の程度はともあれ、それはわれわれの諸問題をともかく解決するだろうというふうに思っていた。知識家が彼の所有物から自由になることの方が、財産家がそうなるよりもはるかに困難である。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


深遠なるものは静謐


深遠なるものは無言であり、静謐(せいひつ)であり、そしてこの静謐の中に、無尽蔵なるものの源泉がある。精神の動揺は、言葉の使用である。言葉がないとき、無量のものがある。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


言葉のレベルに留まるな


言葉のレベルに留まっていないで、どうか、進みながら刻々と体験なさるように。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


我々は逸脱を好む


われわれは、問題がすぐそばにあるので、大きく横道に逸れることを好むのだ。逸脱は、われわれに何かすることを与えてくれる、心配やうわさ話のように。そして逸脱することは往々にして苦痛ではあるが、われわれは、あるがまよりはむしろその方を選ぶのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


悟りは「起こる」


値うちのあるものごとは、見出されるべきものではない。それらは買い入れることはできない。それらは起こらねばならない。そして不意の出来事は、巧妙にもくろむことはできない。深い意義を持つものはいずれも、常に予期せずに起こるのであって、それは決して引き起こされるものではない、というのが本当なのではあるまいか? 重要なのは、起こることであって、見出すことではない。見出すことは比較的容易だが、しかし不意の出来事は、全く別問題である。それが困難だということではない。しかし、出来事が起こるためには、捜し求め、見出そうとする衝動が、そっくり止まらねばならない。見出すことは、失うことを含蓄している。あなたは、失うためには持たねばならない。所有したり、または所有されていては、決して理解すべく自由ではありえない。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


沈黙を締め出すことはできない


物音は終わる。しかし沈黙は浸透していき、そして終りがない。人は音を遮断することはできる、しかし沈黙には囲いはない。どんな壁もそれを締め出すことはできない。それに対する抵抗のすべはない。騒音はあらゆるものを締め出す。それは排他的で、孤立的である。沈黙は、あらゆるものをそれ自身の内側に包摂する。沈黙は、愛のように不可分である。それは、音と沈黙との区分を持たない。精神は、それについて行くことも、あるいはそれを受け入れるべく静められることもできない。静め【られる】精神は、単にそれ自身のイメージを反映できるだけであり、そしてそれらはその遮断において鮮明であり、騒がしい。静められる精神は、単に抵抗できるだけであり、そしてあらゆる抵抗は擾乱である。静め【られた】のではなく、静謐(せいひつ)で【ある】精神は、常に刻々に体験している。思考、言葉は、そのとき、沈黙の外側ではなく、その内側にある。不思議にも、この沈黙においては、精神は静かである。形成されたものではない静謐さでもって。静謐は売り物にはならない。そして無価値であり、そして使うことはできない。それは純粋なもの、ただひとりあるものの性質を備えている。使用できるところのものは、すぐにすり減る。静謐は、始まることも終わることもない。そしてかくのごとく静謐な精神は、それ自身の願望の反映ではない至福に気づくのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


思考の終焉


「言い換えれば、あなたは、知恵があるためには思考が終らねばならない、とおっしゃっているわけですね。しかし、いかにして思考を終らせたらよいのですか?」
いかなる種類の規律、訓練、強制によっても、思考の終焉はない。思考者は思考であり、そして彼は、彼自身に作用を及ぼすことはできない。作用するとしたら、それは単なる自己欺瞞にすぎない。彼は【即】思考であり、彼は思考と別個のものではない。彼は、彼が異なっていると思いこみ、似ていないふりをするかもしれないが、しかしそれは、それ自身に永続性を与えようとする思考の狡猾さにすぎないのだ。思考が思考を終らせようと試みるとき、それは単にそれ自身を強めるにすぎない。どうあがこうと、思考はそれ自身を終わらせることはできない。このことの真理が悟られるときにのみ、思考は終わる。あるがままの真理を見ることの中にのみ自由があり、そして知恵は、その真理の知覚である。あるがままは決して静止的でなく、そしてそれを受動的に注視するためには、あらゆる蓄積物からの自由がなければならない。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


知識がないときに知恵がある


「では何が知恵なのですか?」
知識がないときに知恵がある。知識は連続性を持っている。連続性なしには、知識はない。連続性を持つものは、決して自由ではありえず、新たなものではありえない。終りを持つものにのみ自由がある。知識は、決して新たではありえない。それは、常に古いものになっていく。古いものは、常に新たなるものを吸収し、そしてそれによって力を得ていく。新たなるものがあるためには、古いものがやまねばならないのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


意識は常に過去の過程である


われわれは、意識によって何を意味しているのだろうか? いつあなたは意識するのだろうか? 意識は、愉快または苦痛な問いかけ、刺激への反応ではないだろうか? 問いかけへのこの反応が経験である。経験は名づけること、命名、連想である。命名なしには、経験はないのではあるまいか? この、問いかけ、反応、命名、経験の全過程が意識ではないだろうか? 意識は常に、過去の過程である。意識的努力、理解し、蓄積しようとする意志、あろうとする意志は過去の継続である。おそらくは修正された、がしかし依然として過去のものである。われわれが、何かであろう、または何かになろうと努力するとき、その何かはわれわれ自身の投影物なのである。われわれが意識的努力をするとき、われわれはわれわれ自身の蓄積物の騒音を聞いているのだ。理解を妨げるのはこの騒音なのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


思考は過去の反応であり、理解は現在である


理解は過去の過程だろうか、あるいはそれは、常に現在にあるのだろうか? 理解は、現在における行為を意味する。あなたは、理解は刹那においてあること、それは時間のものではないことに気づかなかっただろうか? あなたは徐々に理解するのだろうか? 理解は常に、即座、今、なのではあるまいか? 思考は過去の結果である。それは過去にもとづいている、それは過去の反応である。過去は被蓄積物であり、そして思考は蓄積物の反応である。いかにしてそれでは、果たして思考が理解できようか? 理解は意識の過程だろうか? あなたは、意識的に理解に着手するのだろうか? あなたは、黄昏の美を享受することを選ぶのだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


あらゆる蓄積は束縛である


発見するためには、自由がなければならない。もしもあなたが束縛され、重荷を背負っていたら、あなたは遠くまで行けない。もしもある種の蓄積があれば、いかにして自由がありうるだろうか? 蓄積する人間は、それが金銭であれ、あるいは知識であれ、決して自由ではありえない。あなたは、物欲からは自由であるかもしれないが、しかし知識への貪欲は依然として束縛であり、それはあなたを抑えつけている。何らかの種類の獲得に縛りつけられた精神が、遠くまで乗り出し、そして発見できるだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


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