二極化、意識の二極化は仕方がない
利を追求する一派と、義を優先する一派がいた場合、
どちらかがどちらかを説得することはできません。無理です。
水と油であって、どれだけ時間をつぎこもうとも、お互いに分かれることになります。
日本人が、そうなります。
利を追求する一派に利以外のものを追うよう説得することは、不可能です。
利を追求する一派が、神の下に、劣る存在であるわけでも決してありません。
利を追求する自由と、義を優先する自由は、同格です。
利を追求する一派のほうが、痛みと苦しみと辛さを生み出すというだけです。
それは激辛ラーメンのほうが「生きてる」と感じる、とかそういう好みの違いです。
分離を信じて突き進む!か、
分離を信じないでてくてく進んでいるか、
そういう違いです。
「私」がやるんだぜ!は分離の道です。
そういう分離感をあえて引き起こしたりしないと「風」が生まれます。
すべてはマル。
すべてはまんまる。
そういう人は、状況の本質に味方されます。
でも尖っている人も大事なんです。
尖る自由がないのなら、この世界を創った意味もないですから。
どれだけ尖っていいか。
好きなだけ尖っていいんです。
神はまんまるの人にも、尖っている人にも平等に侵入しています。既に。
要は、神を見ようとしたのか、
神を聴こうとしたのか、
~ようとしたのは「自分」ではなかったかということです。
その「自分」がいなかったら
いまここに何が「残る?」という話です。
神に形はありません。
神に色はありません。
神は無形、神は無名、神は無色です。
価値判断、そして裁きは
「誰がいつどこで」やっているのか。
この疑問に向き合えば、
「自分」とは「振り返ること」そのものだと気づきます。
恐れとは「愛される資格が(私に)ないという疑い」であることに気づきます。
利を追求する一派と、義を優先する一派がいた場合、
どちらかがどちらかを説得することはできません。無理です。
水と油であって、どれだけ時間をつぎこもうとも、お互いに分かれることになります。
日本人が、そうなります。
利を追求する一派に利以外のものを追うよう説得することは、不可能です。
利を追求する一派が、神の下に、劣る存在であるわけでも決してありません。
利を追求する自由と、義を優先する自由は、同格です。
利を追求する一派のほうが、痛みと苦しみと辛さを生み出すというだけです。
それは激辛ラーメンのほうが「生きてる」と感じる、とかそういう好みの違いです。
分離を信じて突き進む!か、
分離を信じないでてくてく進んでいるか、
そういう違いです。
「私」がやるんだぜ!は分離の道です。
そういう分離感をあえて引き起こしたりしないと「風」が生まれます。
すべてはマル。
すべてはまんまる。
そういう人は、状況の本質に味方されます。
でも尖っている人も大事なんです。
尖る自由がないのなら、この世界を創った意味もないですから。
どれだけ尖っていいか。
好きなだけ尖っていいんです。
神はまんまるの人にも、尖っている人にも平等に侵入しています。既に。
要は、神を見ようとしたのか、
神を聴こうとしたのか、
~ようとしたのは「自分」ではなかったかということです。
その「自分」がいなかったら
いまここに何が「残る?」という話です。
神に形はありません。
神に色はありません。
神は無形、神は無名、神は無色です。
価値判断、そして裁きは
「誰がいつどこで」やっているのか。
この疑問に向き合えば、
「自分」とは「振り返ること」そのものだと気づきます。
恐れとは「愛される資格が(私に)ないという疑い」であることに気づきます。
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Fiora & nobody