こんばんは。今夜のテーマはリラックスを超えるリラックス「スーパーリラックス」です。
どこかのバンド名ではなくて。
0秒にとどまろう!は努力になるので(その手の努力が不必要とか無意味と言っているわけではありません)、とどまろうとするととどまれなかったけどこんな私でまあいいじゃない。
色々なメソッドはいまいちよくわからなかったけど、こんな私でいいんじゃない。
すべて、の道が神に通じるのなら、どうして努力する必要がある?
ないない。
努力する前から探し求めているそれはあるからです。
目の前にあります。
目の前にあるものがなぜみえないかは思考が分割したように見せているからと言えます。
観念の境界線でひとつがバラバラに見える。しかも対象(客体)のように見える。
客体があるんだから、私は主体に見える。
そういう思考の観念論が「分離」です。
最高のシュギョウが「ひとつ」なら、達成(獲得)しようとすることは最高のシュギョウではないかも知れません。
スーパーリラックスまたは諦めればいいということになってきます。
何を諦めるのか「ありのままがこうであること」を今諦めるということです。
それはリラックスして今に参加することになります。
気づいている意識や愛の定着を諦めればいい。
または気づいている意識や愛の定着を諦められないことを諦めればいい。
悟りを諦めればいい。
抵抗していることに抵抗しなければいい。
今を受け入れる「しかない」ことに気づくか(これは虐待を受けるような時に抵抗しないという意味ではありません)、
空間は全てを最初から「受け入れている」から
この「空間の受け入れ」に「抵抗できる私という実体」がなければ抵抗できないことに気づき、
「抵抗できる私という実体があるのかないのか検証する」でも同じです。
検証と言ってもみるだけ、気づいているだけです。
スーパーリラックスシートでくつろぎます。
そうしていくと、全員もう悟っているのに悟っている事実を認識していないのは思考に騙されているからと気づいていきます。
スーパーリラックスは今を「変えよう」とはしません。
今起こりつつあることに任せます。ゆだねます。自動的に気づき続けます。
気づかないことができません。それは勝手に起こります。
スイッチをオフにすることができません。
ですから決して外れない的です。
今日もありがとうございました。
HN:
Fiora & nobody