誰にでも過去に深く埋められた言葉の数々があります。
とてもつらい記憶と一緒に、もう二度と掘り返されたくない、見たくもないという思いになります。
存在すら否定したくなる場所なので、その部分を守りながら生きていこうとするとフォームが不自然になっていきます。
傷は前からあったのに、引き金を引いた人間を責めればいいような誤解が生まれます。
全部掘り返さなくてもいい。
でも不快感が発生した時、今の不快感はそのまま感じるしかないような気がします。
時間差と思考を挟むと余計に混乱します。今の不快感をありのまま感じるしかない。
そこに異なる選択肢をとれる抵抗できる実体がいれば別ですが、そういう抵抗可能な実体はありません。
視点がミクロだと抵抗できそうな気がする。マクロだとそんな分離した個人はない。
そういうことのように思えます。
愛とはなんだろうと思うと、それは「自分がいない」という認識から響くこだまのように思います。
オーケストラがみえないのは、自分を見るからです。自分という観念を通して体験しようとしているからです。自分という観念を世界に上書きしようとしないのなら、自分という観念は体験しません。
そこにあるのはもっと原始的な気づきです。
覚醒とは個人ではなく、オーケストラです。個人がない時にみえます。
何の判断も差し挟まず今にあります。
記憶を引っ張る癖を止められた瞬間に「自分は誰か」わからなくなります。
誰か?と問う思考はエネルギーの動きに過ぎません。消え去ります。
エネルギーの動きに気づいている存在が「在る」ことだけが確かに言えます。
在るへのシフトは「今」にあるシフトです。
その感覚はわけがわからないかも知れないけれど、わけがわからないが「ある」
今日もありがとうございました。
HN:
Fiora & nobody