画像25
クモの糸ならぬ


トイレで用を足して、ふと隅に黒い蜘蛛が震えているのに気づいた。ここから例え話で、蜘蛛を摘まみ上げて、トイレの水に落とす。流す。蜘蛛の肉体と私の肉体は別なので、私には何の影響もないように見える。もしこれが意図的なフェイクだったとしたら、どういう結果になるだろう。蜘蛛が洪水に流されていくとき、その流されて窒息していく体験を「仕切り」しているのは蜘蛛の肉体と私の肉体だ。蜘蛛と私の境界線に当たるその仕切りがなければ、体験者は誰になるのだろうか? 蜘蛛を流す意思決定を下した私のニヤけた顔と、事態が呑み込めず不条理に水だけ飲む蜘蛛の苦しみは、同一の空間で同時に体験されている。因果関係は明白で、私が蜘蛛を流さなければ蜘蛛は苦しむことはなかった。蜘蛛を害する必然性、必要性もなかった。ただ数ある選択肢の中から選択しただけだ。この仕切りが後でマジックの種を明かすように外された場合、その行為が相手にとってどのように体験されたか、どういう意味をもっていたか、相手の立場を知る。これを数限りなく繰り返したとしよう。つまり「仕切り」、自由に「選択させ」、「外す」。「仕切り」「選択させ」「外す」……仕切選択外……そしてこの劇の幕が開き、降りる間も演者や観客とは異なる質、異なる次元のものが実在している。圧倒的で、自己完結的で、超越的で、それでいてこの瞬間の基盤となるもの、すべての想い、言葉、行為を暖かく適切に見守るもの。神は何を学ばせたいのだろうか。意識は常に何かに焦点を当てている。光ではなく、光源に焦点を当てるという概念がここで役に立つ。この焦点が万能、千変万化につながる。人と対するときに、これまでの二人の関係ではなく、内在する感覚の源に焦点を当てるのだ。暖かい共感の在るところ、適切なバランス感覚が発生するところ、現象ではなく発生源へ、より高く安定しているものに主導権を譲る。なぜ蜘蛛をトイレに流したのか。仕切りがフェイクなら、いったい何を学ばせたいのか。焦点。神との関係。焦点。内奥。源。
03 2024/04 05
S M T W T F S
27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody