ニュートラルとはなにか


ニュートラルは目的がないんだと思います。
指向性がない。どこかに移動しようと思っていない。すべてを完全にありのままに受け入れている。ゆだねている。


体がリラックスしているのではなくて、空間がリラックスしているんです。


すべてを完全に受け入れる人のほうが、ニュートラルにいて、いつでも何にでも意識を集中させることができるのだとバーソロミューは言っていました。


追わない、避けない。


だからこそありのままの今に鋭敏なんですよね。
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無題
「ニュートラル」というのは、
否定も肯定もしないで、つまり判断なしに物事を観ずることですね。つまり「止観」。

心が静寂の状態にあるとき、
そんな感じでした。見聞覚知、滞りなく流れていきました。
viola 2013/10/26(Sat)16:36:23 編集
Re:無題
violaさん、こんばんは^^コメントありがとうございます。


>「ニュートラル」というのは、
>否定も肯定もしないで、つまり判断なしに物事を観ずることですね。つまり「止観」。


私もそう思います。否定も肯定も「し」ないと言うより、否定も肯定も「ない」んですよね。
観ずるというより、自動的に観えてくることを自動的に受け取っているとも言えます。
最近私の考え方が少し変わったのは、自我にとっては「否定しないようにしよう」「肯定しないようにしよう」という「する行為」が限度であって、「行為に至る動機そのものがない」空間とは主体の性質が違うということです。


自我に対して「誰に対しても優しく接しなさい」とか「汝の敵を愛しなさい」というのは酷なわけです。それは最初から不可能であり、空間や真我にバトンタッチするしかない。ガンガジの「止まりなさい」は自我に対しての呼びかけです。


止観は自我が怠けることです。努力する自我は、自分で自分の迷路に入りますね。nobodyにはその癖があるんです。どうしても、幼少の神秘体験の記憶を「再現したい」と自我が騒ぎ、それをなだめるのも自我という迷路です。


>心が静寂の状態にあるとき、
>そんな感じでした。見聞覚知、滞りなく流れていきました。


深い静寂を既に体験されているviolaさんは静寂(空間)への移行の体験者です。その「静寂」がいま存在するのに、自我のノイズによって見えなくなるんですよね。
話は変わりますがviolaさんに一つご報告したいことがありました。


以前思考観察をしている時も明確な基準を探していたんですが、一日に観念的な思考が発生する時間の合計を「20分以下」にできた時、空間への移行はスムースに完了するかもしれません。今の私はとてもそこまでは思考の発生を低頻度にできません。主体が個人(自我)のことが多いんです。
【2013/10/26 21:27】
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