全員が正しいからいまがある 愛画素


なんでわたしたちが「人生」に突入するかというと、「愛せないことがあったから」なんです。


たとえば悪いことをする人って愛せますか?


霊的な舞台裏から言えば、愛せるんです。
スクリーン上の映像を映像としての自分が愛するわけではなくて、スクリーンの完全な愛がスクリーン自体に気づいている結果、スクリーン上の映像のすべて、現れる者や対象のすべてが「愛しい」という恒久的な状態(ほんとうの現実)が存在するんですね。
その無限の「愛」というスクリーンがわたしたちのほんとうの姿です。


そして、それが本来の一人一人の魂の力でもあります。
でも、それを思い出している人はあまりいません。


なぜでしょうか。


映像、「表面」にとらわれているからです。
いつも「表面」にとらわれているため、ジャッジが始まってしまうんです。


表面は常に多数です。
対して大事なものは、目にみえません。


でも大事なものは、人間の経験を積んだ者は全員よくわかっています。


それは「愛」です。
それは「思いやり」です。
それは「自己の利益よりも人の尊厳を優先するあり方」です。


道徳ではありません。
これが顕現したときに、誰もが「答えがここに既にあった」ことを思い出すだけです。
文字に現すことはできません。誰もがただ答えだと感覚します。


わたしは以前、悟りというのはそんなメルヘンチックな「愛」とは関係ないんじゃないかと思ってたんです。


でも誤解していたのはわたしでした。
悟りなんかないんです。愛があるんです。システムの玉座に君臨しているのは、愛の神なんです。


いまってありますよね。
いま。
この
いま=愛なんです。
でも普通には「いま」は愛には見えません。
これは「いま」の表面だけを見ているからなんです。


いまを表面で感覚するのをやめて、
いまを深海の底で感覚するように透過していくと
大いなる愛の光に遭遇する瞬間がやってきます。
そして「何が」大いなる愛の光なのかにびっくりするんです。
「すべてが」大いなる愛の光なんです。
「取り囲んでいるすべてが」大いなる愛の光です。


これをどう表現すると近いかと言うと、
「画素」みたいだと感じました。
わたしたちを構成していたすべての画素が、その粒粒の全部が、
愛そのものだった。


そのため、大海の中で「水はどこなの?」ときょろきょろする魚に等しい、まさにこういう比喩のとおりの状況に人はとらわれているんです。


とすると、怒っている人の顔とかもすべてその「愛画素」で構成されているわけです。


心配をする自分の心理状態も、同じ愛画素からできています。
これは←マインドが日々繰り広げている戦いは
馬鹿馬鹿しくないですか。まさに馬鹿馬鹿しいことに気づくという結果です。


滑稽。


これに気づかせるために人生に飛び込んで「パンチ」がやってくるわけです。
ジャブで気づかないなら、ストレートが飛んできます。
だんだんボディーにきます。アッパーで吹っ飛びます。


このパンチが言ってるのは
わたしはあなたとともにある。


コレにとどまる
愛にとどまる
すべてにとどまる
瞬間にとどまる
忘れることさえコレだと忘れないようにする


すべてが、同じなんです。






この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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