イナバウアー


で記憶に残る、トリノ五輪のFS時の荒川静香さんは特別に見えました。
なんだか腕から見えない羽が生えているかのような優雅さを感じました。


それは浅田真央さんやキム・ヨナさんの技術がどれだけ優れていても、ちょっと質の違うものに感じます。未だにそうです。
純粋に技術だけならキム・ヨナさんは当時の荒川静香さんより遥かに上だと思います。


あの時、あの一瞬だけ、荒川静香さんは世界のフィギュア選手の目指す頂に手をかけたんだと思うんです。



いろんなブログがありますよね。わたしもたくさんのブログを毎日定点観測していますので、立派なブログ中毒です。


この日記を書き始める前はブログなんて見たこともないし、よく知りませんでした。
でもこの数年で初めて読むブログでも「胸があったかくなるもの」とそうならないものがあることがよくわかりました。


これはあくまで本人の感覚であって、本人に必要なものが特に光って見えるというのはあります。ところがそれを差し引いても「胸があったかくなる」かどうかの違いは明白にあるんですね。


それはわたしの予想では、そのブログを書いてる主の人が、
書いてる瞬間に「胸があったかいまま」書いてるか否かなんです。


文章を組み立てるのは左脳ですが、その言葉に息を吹き込むのは主のエモーションなのではないかと思います。当然と言えば当然ですね。


そして感情というのは、オーラに想念が突き刺さって転化し、魂に記録を残した瞬間です。
これは魂と、オーラの機能なんですね。


感情を味わうために(閉じ込めるためではなく)虚空は人として人生に生まれているんです。


よって感情というのは、人生を生きる上で望まれて生まれた子供たちなんです。
「わたしの子供」です。


外面でその感情を誘発したように見える出来事はまったく関係ないんです。
この子供たちに必要なのは、「親の愛だけ」です。


ここを間違えて捉えることによって、人生の難易度はベリーイージーからベリーハードに変わります。これは一気に変わります。


わたしが生み出したわたしの子供たち、
わたしの感情を愛さないで外面に責任転嫁するということは、
人生の外面、カモフラージュにころっと騙された状態です。


騙しやすいようにこの世を創ったんです。本音が出るからです。
愛を本気で選ぶかどうかの本音です。


ですから、この遊園地のようなアトラクションのすべてをよりダイナミックに楽しむためには、
そのほうが浮き沈み激しく波乱万丈でおもしろいとも言えます。


ところが時代と地球の要請が変化して、
いまは日本中に愛の必要性を発信するブログが溢れました。


自分を愛していること、
自分の感情を愛していること、
それを日々実践し、
自分の延長としてありのままの他人を愛していること、
この地球に愛の眼差しを向けていること、


そうすると、人生はあたたかくなります。
あたたかさを感じるのはいつもこの胸の中心だからです。



今日をありがとうございました。
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Fiora & nobody