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安全だと思う、で埋めることの危険。


安全保障において、「安全だと思う」部分は「曲がっている」認識が必要です。
「安全だと思う」は解釈であって、まっすぐではないです。


「誠実だと思う」も一緒です。
「」の中は解釈です。


「誠実だと思う」や「安全だと思う」に曲がっている認識がなかったら
いま危険だということではないでしょうか。


糸井重里さんの、
誠実は姿勢、というのが印象に残っています。


別に何がなくても、姿勢だから、誠実であることはできる。


逆に不誠実というのは、姿勢が悪いということです。


不誠実は、曲がった背中のように姿勢が傾いているので、目に見えるんですよね。
逆に誠実は曲がってないです。
だから「曲がっている解釈」を周囲に増やしたりしません。
「安全だと思う」というレッテル貼りがベタベタ増えてくることもありません。


危険な政治家というのは、不誠実な姿勢、傾いていることが見えている政治家です。
資料を残していない内閣法制局なら、不誠実で、明らかに危険です。


誠実は姿勢なので、今日誠実であろうとしているのが見えるということです。


そういう誠実さに対して
「」解釈は減っていくはずで、増えていくのは危ない証拠です。


見られても問題ないならオープンにできるはずです。
見られたら問題だから今までオープンだったものをパタンと裏返すんです。


ワルの色は黒じゃなくて不透明です。
もし自分が誠実なら
「誠実だと思う」という解釈は周囲から減るはずです。


もし私たちが安全なら
「安全だと思う」という解釈は周囲から減るはずです。


私たちが曲がっている場合、曲がっている認識が必要です。
それがまっすぐということです。


曲がっているのにもかかわらず、曲がっている認識がない、
それが一番危険です。



英国の覆面アーティスト、バンクシーの手による政治的風刺が満載のテーマパーク「ディズマランド」がこのほど閉園
ディズマランドには池に浮かんだ難民船の模型をリモコンで操作するアトラクションもあった。来園者は自分の操る船が難民ボートなのか、欧州など大国の船なのかを選ぶことができない仕掛けになっていた。
バンクシーはインタビューで「私たちの快適な生活を維持するために、他国の子どもが地中海の難民船の船底で死んでいく。子どもたちにもこの現実を隠すべきではない」と主張した。



上野○園さんの幼少期の体験談から引用させていただきます。
なぜ今こういうものを引用するかと言えば、
その声が「旧約聖書の神」と名乗られているからです。
「旧約聖書の予言書」の信憑性が、新約聖書のそれと違うなら、
ヨエル書との距離感の参考になると思いました。


引用はじめ



子供の時、私はその声の主が誰なのかと思って尋ねました。
あなた様はいったいどなたさまですか?


すると、その声の主は答えられた。


「私は私である。永遠の神である。旧約聖書の神である。
アブラハムの神であり、そなたの神でもある。


旧約聖書は私の書ではあるが、そのままに読むと意味が解らない。
旧約聖書は秘め書であることを知っておきなさい。
謎を解きなさい。
新約聖書は人の子達が為した書であって、私の書ではない。


日本神話の神話の部分は、そうした事実があったのではない。
私が神の仕組みの一端として、そうした神話を創らせたのである。
日本神話が何を告げようとしているのか?
そこに意味を学びなさい。


私の教えは、日本の民話や昔話に入れさせた。
そなたは日本の民話や昔話を読んで、私の教えを知りなさい。
私の教えは日本のわらべ唄にも入れてある。
特にカゴメ唄、その歌詞の意味をよく知りなさい。


そなたは、ナザレのイエスの愛の教えを恐れてはいけない。
イエスの愛の教えを乗り越えて行きなさい。


私はこの世の幕を引くが、新しい世を創る。
その世は未来永劫に嬉し嬉しの世である。


この地球は宇宙に浮く宇宙船のようなものである。
この地球船と同型の宇宙船があり、そちらの船に移る。
そなたはこの地球号の船長として、
新しい地球船により多くの人を移しなさい。
この地球から退船を拒否する者はやむなし。


船頭多くして、船、山へ登る。
一つの船に多くの船頭が居ては、船は目的地に行かず。
地球船の船長は一人のみ。
されど、地球船には多くの持ち場ありて、多数の乗り組みの船員(神司)があり。
地球船の乗客を避難誘導するは、各持ち場の船員(神司)達の働き。
そなたは、その時には総員退船せよの命令を発し。
船員乗客の避難を見届けて、この地球を離れるべし。
船員の中には、船長の顔すら知らぬ乗組員もあるだろう。


永遠の神である私と永遠に一緒に在る者達。
永遠の神である私を永遠に見ることの無い者達。
私は二つの世界に永遠に別(分)ける。


人は死んで生まれ、死んで生まれてを繰り返す。
過去世のそなたと、今の世のそなたは同じそなたでは無い。
過去世のそなたの親は今の世の親ではない。
そなたの過去世の顔形や背の高さも今の世のそなたとは違う。
育つ環境も、周りの人達も皆同じではない。
されど、過去世のそなたと今の世のそなたの心(魂)は同じなり。


この世は魂の修学の場である。
人が自分の過去世を覚えていることは、魂の修行の邪魔となる。
覚えていないからと云って、前世の存在を否定してはいけない。
過去世が在って、今の世の自分が在り、未来の自分が訪れる。
過去の自分の偉業を知らずして、過去世の自分を尊敬するもある。


人の魂の命は永遠性に近い。
その魂が人の世に在るのは、ほんの僅かな時である。
魂の世界の時間からすると、修学旅行の様な時間にすぎない。
その修学を終えれば、魂の世界にと戻る。
だが、その修学先の僅かな時間に刹那心に溺れ、
自分の魂を潰したり腐らせてしまえば魂の命は終わる。


この世に生まれ出て、
魂の学びをせずに遊び呆けているならば、
それは何の為に修学の場に出たのかとなる。


人はこの世に出て、多くの魂と触れ合う。
それが縁である。
魂の世界に戻ってから逢おうとしても、
魂の世界で二度と逢えるとは限らない。
この世での出会いを、良い思い出としなければならない。


人はこの世の僅かな時間で全てを学べない。
自分が学べなかったことは、他の人が学んでいたりする。
他人が学んだことを、自分は知らないからと否定してはいけない。
他の人が学んだ知識も自分の学びとしなければならない。


人はこの世で学ぶにあたって、この世にはいろんな物語が起きる。
人にはそれぞれに演じる役割がある。
誰もが憧れる善役もあれば、演じたくない悪役もある。
時には通行人だけの役の時もある。
が、何等かの役割はある。
善役ばかりでは、物語の舞台の筋が描けない。
この世に起きる出来事を見て、自分はどう考えるかである。


この世に起きる様々な出来事も、
映画のフイルムの中の一コマに過ぎない。
その一コマ一コマの場面に囚われてはいけない。
全ては流れて行く瞬間の場面に過ぎない。


舞台が終われば、役者も化粧を落として素顔に戻る。
この世の舞台で悪役を演じなければならなかったとしても、
性根からの悪役になってはいけない。
性根から悪になれば、次の舞台には立たせない。
見事な悪役なれば、次の舞台には主役の善役もある。
この世の舞台、見事に演じる役者が居れば、
人はこの世の舞台を通じて、多くのことを学べる。
次の舞台は裏に用意されている。


この神が監督する神の世界の大芝居。
観客は神々や人民ぞ。
神々とて、この私が演出する舞台の筋書きは知らず。
全ての筋書きを知っているのは、この私のみ。
神の世界の舞台に上がる役者にも台本は渡さない。
筋書きを知らずして舞台を演じる役者でないと、神の舞台には使えない。


全ての舞台の幕が下りた時、
神々や人民は、そういうことだったのかと知る。
その時、神々も人民もこの私の栄光を讃えるであろう。
拍手大喝采である。


そなたはどんなに辛くとも、バカになってでも、
神の舞台の役者の一員を務めなさい。
最後のフィナーレの時、そなたも神の舞台に上げてやる。
その時、誰が神の舞台を務めた役者かが解る。
役者全員でご挨拶ぞ。


そなたを社会の底辺に置く。
そなたは社会の底辺を便所虫のごとく這ってでも生きなさい。
その社会の底辺で「人の心の在り方」について学びなさい。


新しい世は、今の世で下に居た者達が上に行く。
今の世で上に居た者達は下に行く。
今の世は、どれだけ下に居たかの競争となる。
誰よりも人の下座にすわれる者となりなさい。
この世の上座にすわりたい者には、その席を譲ってあげなさい。


そなたが本当は何者なのか?
私はそれをそなたに教えない。
また、神々にも解らない様にしておく。
もしも、そなたの本当の正体が明らかになれば、
立身出世をしたい者達がそなたの周囲に集まる。
そうすれば、そなたの目も曇る。
そなたはあまりにも心根が優しく、そうした者に騙される。
社会の底辺の名も無き者として、この世を見つめなさい。
誠の者ほど、社会の底辺に居る者ぞ。


そなたにはボロ服(劣った肉体)を授けた。
人はそなたのボロ服を見て判断するだろう。
外形でしか判断が出来ぬ者は、それだけの者に過ぎず。
その代わりとして、そなたには私の心を与えよう。
そなたを見て私が解る者は幸いなり。
そなたを見て頭を下げる者があるならば、
例えその者が乞食の様な卑しい生活者であったとしても、
そなたはその者と同じだけ頭を下げなさい。
その者はそなたを見たのではない。
この私を見たのである。


海岸に風雪に晒された松の大木があるとしょう。
人はその松の枝振りや樹肌の荒々しさを誉めるであろう。
そなただけは、松の枝振りや樹肌を見て誉める者ではなく、
その松の大木の根を見る者となりなさい。
それはそなた一人だけであっても、そうした者となりなさい。
神にとって必要なのは、松の根を見られる者である。


そなたをこの国の宰相にさせれば、
そなたはこの国始まって以来の名宰相と言われるほどであろう。
されど、私は今の世にそなたを上の地位には就けない。
下に居る者達の苦しみを理解する者とする為である。
そなたは、新しい世において日本の天使長たる職に就くだろう」


私は子供でしたし、それを全面的に信じたではありませんでした。



引用おわり


まず怖いと感じたのは


この世の舞台で悪役を演じなければならなかったとしても、
性根からの悪役になってはいけない。
性根から悪になれば、次の舞台には立たせない。


これです。
そして、魂にとっての危険性とは
「性根から悪になった場合だけ」危険ということです。


わたしは大いなる存在・意識・至福、虚空が不死かどうかはわかっているので、
わたしたちの不死は絶対であることはわかっています。


ですが、「魂の消滅」は神の意向によってはありうる話だと思っていて、
魂にとっての完全な「リセット」は神の意図によってはあるのだなと判断しました。


これはリセットだけに影響することではありません。
留年のように、カリキュラムを学ぶことに失敗し、グレードを下げられる方向にも影響します。
加点主義ではないということです。
たとえばですよ、
大した意味もなく2チャンネルで誹謗中傷を繰り返している人たちが日本にはたくさんいます。
彼らはとてつもなく愚かなことをしていることになります。
人に影響を与える言動に嘘があったり、悪意があるのであれば、
そのすべてが今までの魂の実績の破壊になりダウングレードになります。


魂の成長がわたしたちの主眼であるように、
魂のダウングレードも真摯に恐れなければならないのだと思ったんです。


そういう意味で、とても参考になりました。


では、性根からの悪とはいったいなんでしょうか。
それは、「神の意」を受け容れる素直さがどこにもない場合だと思っています。
もちろん多少の素直さはあるんですよ。どんな人にもどんな場合にも多少はあるんだけれども、
人間の常識からすると頑固すぎて、
守護霊や導きの霊の説得にも一向に耳を傾けず、神の意図してくださっている成長路線にのらない場合があるんだと思うんです。
そして肉体を持っているときは変化が速いため問題ないのですが、
肉体がない場合に精神が止まると危険なのだろうと感じました。
つまり、あの世で気づくと遅い、ということが現実にありうるのではないでしょうか。


上野○園さんの経験はわたしにとっては宝の山です。
こうして学ばせていただけることに感謝しています。
また、続けていきます。



黒江哲郎氏(左)防衛事務次官、三村亨氏(右)防衛審議官
政府は25日の閣議で、防衛省の西正典防衛事務次官を退任させ、後任に黒江哲郎防衛政策局長を起用する人事を決めた。10月に新設する同省の外局「防衛装備庁」の初代長官には渡辺秀明技術研究本部長、防衛審議官に三村亨経理装備局長がそれぞれ就任する。発令は10月1日付。黒江氏は、日米防衛協力指針(ガイドライン)改定や安全保障関連法策定で中心的な役割を担った。渡辺氏は技官出身で防衛装備品の技術などに精通しており、装備品の開発・購入から廃棄まで一元管理を行う装備庁長官に適任と判断した。装備庁新設などに伴う組織改編で新たに設ける整備計画局長には、真部朗人事教育局長を充てる。
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