フリダヤ・グランティ(ハートの結び目)


質問者 身体に苦痛があれば、私はそれを感じますが、他の人の身体の苦痛は感じません。私にはこの身体を克服することができないのです。


マハルシ この身体との自己同一化がそのような感覚の原因です。それがフリダヤ・グランティ(ハートの結び目)と呼ばれるものです。


質問者 どうすればこの結び目を解くことができるでしょうか?


マハルシ 誰にとっての結び目なのでしょうか? なぜそれが解かれることを望むのでしょうか? 結び目がそれを望むのでしょうか、それともあなたがそれを望むのでしょうか?


質問者 結び目ではなく、私がそれを望むのです。


マハルシ その「私」とは誰でしょうか? それが見いだされたとき、結び目は解かれるでしょう。

(対話336)


内なる神の栄光


神とはまったく抽象的なものではなく、生きた存在で、ひたすらに良きもの、与えるもの、幸福、全体性、そして自由なものです。


あなたには想像するのがむずかしいことはわかっています。でも心(マインド)を広げてみてください。可能性はここまでだと区切っている限界を手放してください。神はその限界の外にあります。なぜなら形をもたないからです。形がないので、万物の内に住むことができます。神の存在が見いだせないような場所はありません。


神は男でも女でもありません。身体がないので、性別もありません。神がしばしば「父」と呼ばれるのは、わたしたちとの関係が男性的なものだからです。わたしたちは神のスピリットを持ち運び、育み、世にもたらす子宮です。


しかし、そのような関係、花嫁と花婿のような関係にあるからといって、神を男性的なイメージ一辺倒にする必要はありません。神は戦士でもシャーマンでもなく、救い主でもありません。白髪の賢人でもなければ、賢女でもありません。そうしたイメージは文化人類学的なものです。


神は、男性と女性の持つあらゆるポジティブな可能性を結びつけた、愛の存在です。育みそだて、また保護します。力強く能動的であると同時に、優しく温和です。


神は、いにしえの賢者の知恵と同時に、おさな子の無邪気さを備えています。戦士の強さと同時に、若い母親の気遣いを備えています。神はすべてであり、それ以上です。


神は定義できません。わたしたちが「神」について抱いている概念の中には、閉じこめられません。


制限なき存在であるがゆえに、神のスピリットはわたしたちの心と経験の中を生きて動いています。この神の臨在からわたしたちは、自分の本性を引き出しています。その本性こそ、わたしたちのまことの姿です。その本性に意識的に気づくことはあまりないのですが。


スピリット、つまり”聖なる本性”は、生まれることも死ぬこともありません。それは肉体的な誕生の前から存在し、肉体の死ののちも存在します。その本性は、知性的・感情的経験の範囲には押しこめることができません。それはつねに変わらぬ愛の存在であって、自分自身を十字架につけたり、他人を攻撃したりするのをやめさえすれば、そこへもどることができるのです。


あなたの中の”聖なる本性”は、兄弟姉妹の中のそれとまったく同じです。それはたったひとつの本性、たったひとつのスピリットなのです。肉体はたがいに別々ですが、”聖なる本性”があなたがたを結びつけています。心どうしはくいちがい、他人をあれこれ批判し、攻撃するかもしれませんが、”聖なる本性”はあらゆる心をたったひとつの調和の中に抱きとります。


あなたが肉体に、あるいはたがいに分離しているという考えに自分を同一化しますと、”本性”を忘れてしまいます。ほんとうの自分を忘れてしまいます。あなたは兄弟とは別の分離した存在だと思っています。神からも分離していると思っています。そう思っていなければ、まわりを批判したり、攻撃したりできるはずがありません。


あなたが”本性”を思い出せば、あらゆる存在とのスピリチュアルな関係をも思い出すことになります。ほんとうの自分を思い出せば、攻撃などできません。


内なる”聖なる本性”を認めるまでは、あなたは神の栄光を知ることはないでしょう。この”聖なる本性”はあなたの性別、人種、経済状態、国籍、宗教には関係ありません。自分のことをどう考えているか、他人にどう思われているかも関係ありません。


あなたの内なる”聖なる本性”は、まったく愛すべきものであり、愛です。その”本性”に接触すれば、あるがままの自分でいい、それで受けいれられるのだとわかるでしょう。あなたには、なにも改善したり手直ししたりするべきところはないとわかります。自分の”本性”を知るには、自己批判と自責を手放さなければなりません。また兄弟姉妹に対する批判をも、根こそぎ捨てなければなりません。


この状態にとどまることに慣れてきますと、人生はどんどん楽になります。だからこそ多くのスピリチュアルな教えは、瞑想と祈りを日課にすることを勧めているのです。神との交わりは、あなたを力づけます。肉体的にも感情的にも知的にもよい状態になるには、それが必須です。


わたしはなにも一日一時間ずつ瞑想や祈りをしなさいとは言いません。しても悪いことはないのですけれども。ただ、一時間に五分は、そして十の考えのうちの一つは、自分の”聖なる本性”を思い出すようにしてください。神を思い出すということをたえず行うようにすれば、人生のソープオペラ(波瀾万丈のストーリーを持つチープな連続ドラマ)にはまりこむことはなくなります。十のうち九つの考えはおそらく、自分はここを直すべきだとか、あの人はあそこを直すべきだとかいうものでしょうが、十番目の考えは、直すべきところのないものについての考えにしてください。十番目の考えは、完全に受けいれられるもの、完全に愛すべきものについての考えにしてください。


これは、安息日として確立すべきリズムです。六日のあいだ、あなたは仕事や葛藤のドラマにはまりこみますが、七日目には神を思い出すようにしてください。七番目の日は休息の日、内側に向かう日にしてください。


安息日の知恵を日常生活に持ちこんでください。そうすれば、ほんとうの自分、また兄弟のほんとうの姿を、あまり長く忘れないですみます。思い出すという儀式に入れば、あなたの一日一日、一時間一時間、そして毎分がすっかり変わります。


食事のときには、神があなたとともにテーブルについておられます。兄弟と話すときには、神があなたに、相手を勇気づける言葉を言わせてくださるでしょう。そういうことを全部忘れて、妻あるいは夫に向かってわめきちらすときも、神は手をのばし、あなたにそっとふれ、ユーモアたっぷりに言われます。「またソープオペラにはまったね」あなたは自分自身がおかしくなって笑いだし、自作自演のドラマに深入りしないですむでしょう。


すべては思い出すというゲームです。いったんそのことに気づけば、儀式の意味はあなたにとって、まったく変わってしまいます。ですから、自分が思い出すことの助けになるような儀式の形式を自由に選べます。どんな形式でもいいのです。さいわい、形式は探そうと思えば山ほどありますし、だれでも自分にぴったりのものを見つけられます。


兄弟の選んだ形式が、自分のと根本的にちがっていても、心を乱さないでください。その人が思い出すのに役立つような形式であれば、そのことはあなたの役にも立つのです。形式の違いで言い争うことはありません。それはまったく本質的ではないのですから。


形式に関するむなしい議論ほど、わたしをいらだたせるものはありません。人々をたがいに分かち隔てるような言葉や信条は、わきにのけておきなさい。あなたが恵みの道を歩きたいなら、目に入るあれこれの違いを見過ごし、むしろ人と分かちあえる部分に着目し、それに焦点をあわせることです。


真実はあらゆる形式、あらゆる大きさでやってきますが、すべてはたったひとつのシンプルな真理です。あらゆる形式のなかに、あらゆる状況のなかに、その真実を見いだせるようにしてください。平和を愛する男女なら、そうすべきです。


あなたがたは、文化や宗教のバリアーが乗りこえられるような時代に入ってきています。ちがった言葉を話す人々が、おたがいを理解するようになるでしょう。多様性を許容すれば、すべての人に認められる普遍的な価値という考えにゆきつくでしょう。これからはひじょうに重要な時代です。あなたがたひとりひとりは、このバリアーをはがして、平和にいたりつくための重要な役割をになっています。


ですから、どうか、そこでは自分が完全ですべてであるような、そういう場所をみつけるようにしてください。その場所からなら、人生に入ってくるすべての人を祝福し、受けいれられます。その内なる平和の場所からなら、あなたは男と女のあいだに平和を打ちたてられるでしょう。これがわたしの教えです。あらゆる時代を通じて、つねに変わりなくそうだったのです。Y


マハルシ 世界はローカにすぎません。ローカとはローキャテー・イティ・ローカハ(知覚されたものが世界である)です。見られるものがローカ、つまり世界なのです。それを見ている目とは何でしょうか? それは(目覚めと眠りのたびに)周期的に立ち現れては消えてゆく自我です。しかしあなたは常に存在しています。それゆえ、自我の彼方に在る「それ」とは意識、つまり真我なのです。


深い眠りの中では、心は沈み込んでいても破壊されてはいません。沈み込んだものは再び現れてきます。しかしひとたび破壊された心が再び現れることはありません。ヨーギーの目標は心を破壊することであって、ラヤ(心が一時的に停止した状態)の中に沈ませることではないのです。ディヤーナの静寂の中でラヤは継続しますが、それは十分ではありません。心を破壊するためには別の修練の補助を得なければならないのです。


認識しなさい。日々の活動の中でこそ、それを認識するときです。活動は自動的に続いて行きます。心が活動を促していると考えるのは真理ではありません。心は真我から現れた幻影でしかないということを知りなさい。こうして心は破壊されるのです。

(対話76)



自分の望みを物質世界で実現することがじょうずな人は、現実的な目標をたて、状況に応じて柔軟に対応していくことを学んでいます。


柔軟性ということの意味を知りたいなら、風のなかの若木をごらんなさい。幹は細くもろくても、すばらしい強靭さと耐久性をもっています。それは木が風にさからうのではなく、それに合わせて動くからです。


あることの起きる条件が整っていれば、たいした努力なしに実現します。条件が整っていなければ、たいへんな努力をしても実りません。風とともに動くには、現在の条件に対する敏感さがいります。休んで英気をたくわえるときがあり、エネルギッシュに前進するときがあっていいのです。


いつ動き、いつ動くべきでないかは、常識と直感の問題です。抽象的な思考だけでは、ほんとうにものごとを感じとることはできません。抽象思考は、感情の敏感さと結びつくべきです。


ものごとを正確に見極めるには、外的な状況がどんなふうで、どう動いているかだけでなく、自分がその状況にどんな感情を投影しているかも見極めねばなりません。内的現実、外的現実のどちらも視野にいれます。


内的現実が外的現実のそれを決定するのだ、という人がいます。逆だという人もいます。どちらも真実です。ニワトリは、卵がなければ存在しないし、逆もまた真です。原因と結果は直線的に結ばれるものでもないし、こうなればこうなる、と次々ドミノ倒しのようにつながっていくものでもありません。それは同時にあらわれます。本質は円環的なのです。原因が結果を決めるだけでなく、結果も原因を決めます。


「ニワトリか卵か、どちらが先か」という問いに対する答えは、どちらでもあるし、どちらでもない、ということです。ニワトリと卵は同時存在です。「Aか、さもなければAでないか」という問いはすべて同じように答えられます。そうでなければ、その答えはまちがっています。


”至高のリアリティ”とは、AでなければBであるというような二極性の枠ではとらえられません。それは内なる主観的現実と、外なる客観的現実の両方を含み、また両者の自発的な相互作用を含んでいます。


”至高のリアリティ”は、全的な受容、全的な降伏、全的なすべてを受けいれる愛の産物です。そこにふくまれないものはありません。


木が根こそぎひきぬかれ、川に流されたとしても、そこに悲劇はありません。木と川のあいだには、なんの差異もないからです。


”至高のリアリティ”の流れと対照的に、世の中には”抵抗”というものがあり、これがさまざまの条件づけを生みだします。弁別、比較、評価判断が起き、自然の流れが妨げられます。


”至高のリアリティ”の本質は「イエス」と言うことです。それにはもともと陶酔と熱狂がそなわっています。それは、あらゆるものごとを吸収同化します。それは目に見えるようになった幸福です。すべての人、すべてのものを、自分自身とみなすからです。


”抵抗”はつねに「ノー」と言います。それは本来、葛藤や努力をともなっています。あらゆるものに反対しますので、不幸の具現化ともいえます。抵抗がないとき不幸はありません。不幸はつねに、なんらかの条件に対して抵抗します。不幸は、これは良いという解釈、あるいは悪いという解釈の上に立っています。不幸の根とは、執着、こだわりです。


さて、わたしはあらゆる執着を捨てなさいと言っているわけではありません。友よ、それは現実的に達成できるゴールとはいえないでしょう。ただ、自分の執着、ものごとの感じかた、良い悪いという解釈方法に気づきはじめてください。あなたが自分の幸福をいかに条件つきのものにしているかに、気づいてほしいと求めているのです。


無条件というものを理解したければ、風に身をゆする木を見なさい。あれ以上の比喩はありません。木は深く根をはり、がっしりと枝をひろげています。足もとは確固とし、上のほうは柔軟です。それは力強さと、ゆだね、あけわたすことのシンボルです。


柔軟性を人生のあらゆる状況において発揮することによって、あなたもまた同じような力強さを発達させることができます。背筋をのばして立ち、この瞬間に根ざしていてください。自分の欲しているものを知り、しかし、それらをむりやりに求めるのではなく、人生の流れがおのずとそれをかなえてくれることを知りなさい。あなたの欲しいものを、ある方法で手に入れるということに執着してはなりません。それは、不必要な抵抗をもたらします。


風とともに動くのです。人生はダンスです。動きであり、持続です。


あなたの選択は簡潔です。ダンスできるか、できないか。
ダンスをしないことに決めても、ダンスフロアから追い出されるわけではありません。ダンスはあなたのまわりで、くりひろげられ続けています。ダンスは続き、あなたもその一部です。


あらゆる条件は、無条件という状態に対して開かれています。ただ自分をオープンにして、この瞬間の中にいれば、神の腕の中に抱きとめられるでしょう。しかし一瞬でも抵抗すれば、自分で作り出した不必要なもつれに絡まってしまいます。


人間は条件つきの現実(リアリティ)から自由になることはできません。なぜなら、条件つきの現実は、人間の意識が創造したものだからです。自分の創造物から逃げようとするのをやめてください。ただ受けいれるのです。木が風を受けいれるように。あなたの聖性は、完全に人間らしくあること、
自分や他人の欠乏や欲求を完全に受けいれる態勢になることのなかにあります。
深いあわれみの気持ちは、自分を感情的体験から切り離してしまうのでなく、完全にその体験に参加することによってのみ持つことができます。


「ここは苦しみの場所だ、あるいは喜びの場所だ」とは言わないでください。あなたの体験を、実際とはべつのものに仕立てあげないでください。解釈から遠ざかりなさい。解釈は、人生のどちらかいっぽうの極をだけ受けいれるよう、うながすのです。


この世界でのわたしの経験も、あなたがたと同じでした。わたしはあなたがたと同じように、人生のダンスの中へ入ってゆき、理解と受容のなかで成長し、条件づけられた愛から、条件なき愛の経験へと移行してゆきました。愛する兄弟姉妹よ、あなたがたが感じたり経験したりしたもので、わたしが味わわなかったものはありません。わたしはあらゆる欲望と恐怖心を知っています。それらすべてを通りぬけたからです。


わたしもあなたと同じ程度のダンサーです。わたしはそこに参加し学びたいと、喜びいさんで願っただけです。わたしがあなたがたに求めるものも、それだけです。喜びいさんでおこなってください。参加してください。触れ、触れられてください。そのためにこそ、あなたがたはここにいます。


ハートは開くとき、愛に満たされています。奇蹟は、開いているハートに、そしてコントロールしたい、知りたいという欲求をあけわたした心(マインド)に、自然にやってきます。


神の一部であるあなたに、神が供給をさしひかえることはありえません。あなたを分離した別存在として見ることはありません。親が子どもを見るように、ゆるぎない愛と関心をもってあなたを見守ります。


たったいま、この瞬間に、あなたは救われます。覚えておきなさい、友よ。たったいまこの瞬間に、あなたは神の声に耳を澄ませるか、あるいは自分で作り出した無用な心理劇の泥沼にはまりこむか、です。たったいま、あなたは幸福になるか、人生の状況のアラ探しをするか、です。自分の思考によく気をつけていて、こうたずねなさい。
「わたしはたったいま、神の無条件の愛に気づいているだろうか」


もし答えが「イエス」なら、あなたはハートに”聖なる存在”のぬくもりを感じます。答えが「ノー」なら、あなたの意識がその”聖なる存在”のことを思い出させ、あなたをそちらへつれてゆきます。


いま現在の瞬間に対してオープンになれると、心と経験の中にある”聖なる存在”に気づく回数も多くなります。この拡大した意識の内部で、あなたという個人の目的も明らかになり、自分と他人にとって最善のことをするにはどうすればよいか、その道も見えてくるでしょう。


ある環境が、あなたの目の前にあらわれてきます。見かけは混乱したものかもしれませんが、あなたはもう、判断をくだすことはありません。あなた自身にも他人にも、もはや不備な点は見いだせません。いまここにある状況に全面的に身をあけわたすようになり、ベストをつくし、自己放棄の力強さのなかにゆったり安らぎます。あなたは結果をますます神の手にゆだねるようになり、贈り物はつねに受けとるにふさわしいものだということがわかります。あなたの贈り物は、つねに十分なものです。


そのときあなたは、わたしのまことの姿を見るでしょう。わたしはそれを確信し、大きな喜びをもって、その瞬間を待ちのぞみます。それは真理の瞬間だからです。それは分離の終わりです。それはあらゆる苦しみの終わりです。Y


真実はあらゆるものの中にある。だが同時に、あらゆるものには成長がある。というのも、それぞれの瞬間ごとに、真実もつくり直されるからだ。神は完璧な状態にあるのではなく、何かになりつつある状態にあるのはこのためだ。それぞれの存在は、自らの理解において絶え間なく進歩を続け、さらに限りない真実を包み込むようになる。そして、その存在の理解がどんなものであろうと、その理解は一瞬一瞬、その存在が見るとおりの真実、知るとおりの真実へとなっていくのだ。R



質問者 私は欲望がいっぱいで、それらすべてを満たしたいのです。どうすればいいでしょうか?


マハラジ あなたは欲するものを受けるに値するだろうか? 何とかして欲望を満たせるよう努めるしかない。エネルギーを注いで、結果を待ちなさい。


質問者 どこからエネルギーを手に入れるのでしょう?


マハラジ 欲望そのものがエネルギーだ。


質問者 それなら、どうしてすべての欲望は満たされないのでしょうか?


マハラジ たぶんそれは充分強くはなく、長続きもしなかったのだろう。


質問者 そうです。それが私の問題なのです。物が欲しいのですが、いざ、行動を起こす段になると怠惰になってしまうのです。


マハラジ あなたの欲望が明確でなく、強くもなければ、それは形をなさない。さらに、もしあなたの欲望が個人的なもので、あなた自身の享楽のためならば、エネルギーは必然的にかぎりあるものとなる。それはあなたがもっている以上にはならないだろう。


質問者 しかし、しばしば普通の人びとも欲望を達成しています。


マハラジ それを本当に強く、しかも長期にわたって望んだときだけだ。たとえそうだとしても彼らの達成はかぎられたものだ。


質問者 それでは、利己的でない欲望はどうなのでしょうか?


マハラジ あなたが社会のためを思って望むならば、世界全体があなたとともに望むだろう。人類の望みをあなた自身のものとして努めなさい。そうすれば、けっして失敗はありえない。


質問者 人類は神が関わる仕事であり、私の仕事ではありません。私は私自身に関わっているのです。私の正当な欲望が満たされるのを見る権利はないのでしょうか? それは誰も傷つけません。私の欲望は正当なもので、正しい欲望です。なぜ満たされないのでしょうか?


マハラジ 欲望は環境や状況にしたがって、正しくもなり、間違いにもなる。あなたがそれをどう見るかによるのだ。正、不正の区別は個人にとってのみ有効なのだ。


質問者 その区別のガイドラインとなるものは何でしょうか? どうすればどの欲望が正しく、どれが間違っているのか知ることができるのでしょうか?


マハラジ あなたの場合、悲しみをもたらす欲望が間違ったもので、幸せをもたらすものが正しい。だが、ほかの人たちのことを忘れてはいけない。彼らの悲しみや、幸せもまた考慮に入れるのだ。


質問者 結果は未来のなかにあります。どうすればそれを知ることができるのでしょう?


マハラジ 考えなさい。記憶し、観察しなさい。あなたはほかの人と変わりはしない。彼らの経験のほとんどは、あなたにとっても有効なものだ。欲望とその枝葉の構造全体に入り、深く明晰に考えなさい。それらはあなたの精神的、感情的構造のもっとも重要な部分であり、あなたの行動に強力な影響を与える。覚えておきなさい。あなたの知らないことを放棄することはできない。あなた自身を超えていくには、あなた自身を知らなければならないのだ。


質問者 私自身を知るとはどういう意味でしょうか? 私自身を知ることで正確には何を知ることになるのでしょうか?


マハラジ あなたではないすべてを知るのだ。


質問者 何が私か、ではないのですか?


マハラジ あなたはすでに、あるがままのあなたなのだ。何があなたではないかを知ることでそれから自由になり、あなたはあなた自身の自然な状態にとどまる。すべては自発的に、努力なしに起こるのだ。


質問者 そして私は何を発見するのでしょうか?


マハラジ そこに何も発見するものはないということを発見する。あなたはただ、あなたなのだ。ただそれだけだ。


質問者 しかし究極的に、私とは何なのでしょうか?


マハラジ あなたではないものすべてを究極的に否定したものだ。


質問者 私には理解できません!


マハラジ あなたが何者かでなければならないという固定観念、それがあなたを盲目にするのだ。


質問者 どうすればこの考えからまぬがれることができるのでしょうか?


マハラジ もし私を信頼するなら、あなたは意識とその無限の内容物を照らす純粋な気づきだ、と私が言うのを信じなさい。それを自覚し、それにしたがって生きなさい。もし私を信じることができないならば、そのときは内側に入り、「私は誰か?」と尋ねるがいい。あるいは純粋で純然な存在である、「私は在る」という感覚にあなたの気づきの焦点を合わせなさい。


質問者 あなたに対する私の信頼は、何に依存するのでしょう?


マハラジ ほかの人のハートを見通すあなたの洞察に依る。もし私のハートを見抜くことができないなら、自分のハートに見入るがいい。


質問者 どちらも私にはできません。


マハラジ 秩序ある有益な人生を生きることで、あなた自身を浄化しなさい。あなたの思考、感情、言葉、行動を見守りなさい。それがあなたの洞察力を明晰にするだろう。


質問者 すべてを放棄し、住居なき放浪の人生を送るべきではないのでしょうか?


マハラジ あなたには放棄できない。あなたは家を放棄し、家族に問題を与えるかもしれない。だが執着はマインドのなかにあり、あなたがマインドの内も外も熟知するまで、それがあなたを離れることはないだろう。まず、あなた自身を知りなさい。そうすれば、ほかのすべてはやってくるだろう。


質問者 しかしあなたはすでに、私が至高の実在だと言われました。それは自己知識ではないのでしょうか?


マハラジ もちろん、あなたは至高の実在だ。だが、それがどうだというのかね? 砂のひと粒ひと粒がすべて神性であり、それを知ることは重要だ。だが、ただのはじまりにすぎない。


質問者 あなたは私が至高の実在だと言いました。あなたを信じます。では、つぎに私にできることは何でしょうか?


マハラジ もうすでに言ったはずだ。あなたではない、すべてを発見しなさい。身体、感情、思考、概念、時間、空間、存在と非存在、あれやこれ──具象であれ、抽象であれ、あなたが指し示すことのできるものはすべてあなたではない。あなたはあるマントラを、何の結果も得られないまま際限なく繰り返すかもしれない。単に言葉による表明だけではだめなのだ。あなたは自分自身を、特にあなたのマインドを見守らなければならない。一瞬一瞬、何ひとつ見逃すことなく。この観照が、自己から非自己を分離する本質的なものだ。


質問者 観照──それが私の本性ではないのでしょうか?


マハラジ 観照のためには、そこに観照されるべき何かほかのものがなければならない。それではまだ、私たちは二元性のなかにいるのだ!


質問者 観照者を観照することはどうでしょうか? 気づきに気づくことは?


マハラジ 言葉を並べたてることではどこにも到達しない。内面に入り、あなたではないものを見いだしなさい。それ以外、残された道はない。


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