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ボートがあって航跡があるとき、航跡は実在だと思う。その本人しか知り得ない、というか他人には関係ない、課題と、宿命と、感情と、青写真がある。隣人の成長は関係ない。自分の成長こそが人生だ。自分が成長しないなら、その人生になんの意味があるだろう。他人が成長のポイントはね、と言い出したら、それはその人が、他人にも自分の成長のポイントを適用できると思っていることを意味する。その考えが正しいか間違っているかはわからない。でもそういうことが無意味な場合は多いと思うのだ。比較というのは、本当の要点を見えなくしてしまう気がする。広大な地平にたくさんの登場人物が出てくるけれど、これが全部カモフラージュだったらどうするだろう。私と神しかいなかったら今日は違う意味をもつだろうか。


一つの概念に取り憑かれていると、新しい概念の組み換えはできないらしい。新しい岸部に着くのを妨害するのは今の足場だと思った。浮遊というか、漂流はときに必要なことがあるのだ。


「(あなたは)見られている」が宗教。
「見られていなくても」が道徳。
「どう見ているか」が哲学。
「見えているものは何か」が科学。
「見ることが出来たら」が文学。
このキャッチコピーが正しいとすると。道徳よりも宗教のほうが緊急性があり強迫観念が強いため道義的に上級なのは道徳だと感じた。また神が実在しないのなら科学が正しいが、科学最上位であった場合でも自分たちが生活している母体である惑星を破壊している現状のバランスに直接的、効果的に取り組めないなら、人類というのは自殺するレミングのようだとも思う。集団自殺中のレミングの一部が断頭台の上で「科学万能!」と叫び続けるなら滑稽だ。科学が正しいと言いたいなら政治的社会的にも人類の行動を抑制し社会正義を実現させる鉄より固いシステムがいるだろう。現代の文明は上空から見ればどれほど愚かなのか意識的でいるべきだと思った。


在るのはわかるが正邪がわからない場合もある。(存在として)在るのはわかっても、あなたは善ですか悪ですかと聞かれて相対的な基準のどちらに当たるか記憶参照することはある。かつて邪悪なことをしでかした記憶を引っ張り出したら邪。善良なことをした記憶を引っ張り出したら正。ではほんとうはどちらなのかと聞かれてもやっぱりわからない。ただ上か下かの昇ると降りるはたぶんわかるんだな。なぜわかるんだろう。神の光の粒子を感じとるからなんだろうか。光るのと薄暗いのとがわかるのか。


疾走して失踪って、なんだか清々しい響きだ。
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