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神はいない、から、その存在を信じる人たちはバカだ、という考え方だと思う。それは自己規定なので何も問題ない。彼は結局、神がいるかいないかとはまったく関係ないところで、誰かか何かのせいにしたまま人生を終えた。その想いと言葉と行為のなかで、子どもまで巻き添えにした。彼はそれを選んだ。


テキサス州の小さな町にある教会で11月5日、銃を乱射して子どもを含む26人を殺害した男は無神論者で、犯行は別居中の妻の家族を狙ったものだった可能性がある。ニューヨーク・タイムズ紙によると、容疑者の元同級生はフェイスブックに「(容疑者は)神の存在を信じる人たちを常にバカ呼ばわりし、無神論を説いていた」と投稿している。



人生について向こうの人がどう考えているか。向こうの人にも色々あるが、大雑把に言うと、
(陰)悪 → 認める → 焦点変更 → 善(成長)
(陰)NO → 認める → 焦点変更 → YES(成長)
(陰)ドツボ → 認める → 焦点変更 → 理想(成長)
と見ているらしい。左の悪やドツボは、実際に身体で、皮膚感覚で体験する陰(オン)と呼ばれる(そうフィオラが発音している)負の感情のこと。陰陽(オンミョウ)の場合だったら反対側は陽になりそうだが、それは二極性の対立概念であり、目指しているのは二極性を超える昇華、成長になる。人生は「実地にこの陰を体験するため」にある。三千万人いたら、この三千万人の一人一人に陰を味わわせて、それを本人だけに「認めさせる」。認めさせることがとても重要なステップで、普通はなかなか認められない。陰の受け容れそのものを拒否してしまうことが多い。認めさせてから、神や神界や上側の霊たちが学んでほしい方向と、本人の学習計画が一致した理想・成長の方向へと目を向け、焦点を「(愛・叡智への成長に)変える・(神に)帰る」これが神界側への帰還になる。学んでほしい方向は常に、愛に該当し、叡智に該当する、この二つを同時に満たす方向であり、出会ったすべての(すべての、が冗談でも誇張でもない)人への共感と、その瞬間何がもっとも適切か内在している感覚の源を焦点に据えているときに実際に出る想い・言葉・行動になる。結果としての想い・言葉・行動は千変万化するが、焦点は常に一つ、愛と叡智の交差する源に向かっている。
この焦点変更、焦点帰還が「神との関係」の距離を変える方法であり、肉体をまとわせてまで人生を繰り返す理由の一つのようだ。そのため、机上の空論を計算させるためにここに来ているのではなく、「非常に嫌な感じ」を体験データとして集めさせ、認めさせ、その上でそれを利用して神との関係を強化するためにここに来ている。
この過程の中間地点が大体「陰を認める」ステップだ。もし認めないで対処療法に終始すると、本来の目的である成長が果たせないまま人生が終了する。
最悪の例を挙げると、強制収容所に入れられて最終的にみんな虐殺されていくような場合だ。そんな状況で希望を持ち続けられる人間などふつうはいるわけがない。それなのにアンネ・フランクが最後に言ったように「それにも関わらず、人間というものが本性から善なるものであるといまだに信じている」という言葉が出てくる。このときのアンネの焦点は、人間が実際どこまでできるのかを示しているのかもしれない。


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