私はとうとう疲れてしまったようだ。何もコメントがないまま早3ヵ月。最近は海外からの迷惑メールみたいな宣伝リンクのコメントすらこのブログを避けて通るようになった。巷に不人気ブログは数あれど、ここまで見事な不人気具合もそうはあるまい…。
季節のニュース&夏の花火大会ブログ界に彗星のごとく現れたキング・オブ・過疎主。
みんなあとのことは頼んだ…がくっ。






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自分自身や地球の変容に少しでも興味があるならば、自分の肉体や心や精神が体験しているものに目を向けてください。


深い悲しみを感じているときには、またいのちも深く感じていることに、人はやがて気づきます。あらゆる種類の体験が生まれては消えるのが、この地球界で生きるということです。覚醒者というのは、そうしたものすべてを感じるのはすばらしい喜びであり、特権なのだ、ということを知っている人です。


あなた方が肉体のなかに入ってくる理由の一つは、意識の拡張という非常に胸がワクワクする作業に参加するためです。そしてあなた方は、創造界のすべての分野に、以前より多くの覚醒意識をもたらします。この目的が理解できてくると、自分の状況に関して喜びを感じようが悲しみを感じようが、たいした問題ではないということがわかります。大切なのは感じるということです。自分が何かを体験していて、生きているということです。悲しみや喜びを超えた何かがあって、それが悲しみや喜びに意味を与えるのだということを発見します。


すべてのことの重要性を理解して、呼吸のひと息ごとに感激し、あらゆる体験を喜び、あらゆる感情に胸おどらせるようになると、その人の人生はまったく新しい意識によって築かれます。目覚めた意識ですることは何でも、自分の本質を知っているという平和の感覚へと、その人を一歩ずつ近づけてくれます。呼吸はすばらしいことです。自分が今していることが何であれ、それをしながらこうして今ここにあり、この体験をしているのはすばらしい栄誉であることを自覚して、呼吸してください。贈り物とは呼吸のことであり、神とは呼吸であり、”大いなる光”とは呼吸であるということに気づいてください。


それがわかると、「この瞬間は、今あるがままで完璧である」と断言できます。そして、何も変えたり避けたり押さえつけたりする必要がない、ということがわかります。それぞれの瞬間が、そのままの状態で、覚醒への瞬間なのだと本当に理解できたら、完全にこの瞬間に生きるということを身震いするような感動を持って感じるようになるでしょう。


完全に今の瞬間に生きるには、自分の体のなかにいて、自分の思考に耳を傾け、感情を味わい、肉体に敏感であることです。そうすれば、人生の贈り物を受け取ることができます。それは、自分の人生がたとえどのように限られたものであっても、自分はそれでもいのちに満ちているという感覚です。ということは、下半身麻痺でベッドに横たわっている人も、ほかの人と同じ量の生命エネルギーが全身を流れているということです。


私たちの言葉で言えば、科学者は一%のもののかわりに九十九%のものに目を向けはじめます。存在のさまざまに異なる形状のかわりに、<存在の基礎>に目を向けはじめます。この分野の科学者たちの取り組み方次第で、すべての科学者にもまったく新しい体験が待ち受けています。あなた方は、自分の肉体の実験室で、この答えをみずから見つけることができます。


細胞のすべてに、現在のところ<空間>と呼ばれている何かが存在します。それは<非物質>なのでそう呼ばれています。その空間は、あなたの本質である基本的な<非物質>なのです。そこに含まれているのは、パワーに満ちた<叡智>の脈動点です。これらの点がいっしょになって美しい模様を織りなしており、科学者は将来、それをスクリーンに映し出して、人々に見せることができるようになるでしょう。それは物体の模様ではありません。それは、個人の<目に見えない>エネルギーの場が持つ、基本的なパターンを物質化したもので、何億種類のパターンのなかから一人ひとりが選ぶものです。実際のところ、あなたは数兆個の光とパワーの点から成る、脈動する電磁波のパターンの一つなのです。あらゆる生命体は、人間の姿とどれほどちがっていても、すべてこのすばらしい生きたパターンがあります。


肉体のなかで脈動を起こす燃料は何でしょうか。呼吸です。呼吸が止まると、パターンのなかの脈動がとまります。それは、個人のパターンが死んだり消えたり、何らかの意味で減少するということではありません。それが単に後退して、肉体の外へ出、基本的なパターンのなかに戻るということです。別の言い方をすれば、それは人間の体からこぼれ落ちて、”大いなる存在”のもっと深い状態のなかに入ってしまうのです。


人が肉体を離れたときに、脈動する光のように<見える>神々しいエネルギーの渦に出会うことがあります。そしてその光からあふれ出る愛と慈悲に圧倒されます。ここでその人が体験しているのは意識の転換なのです。意識が肉体を離れて光体へと移り、人はそれを自分の外へ出たと感じます。この段階では、<自分>と<他者>が存在します。人が実際に<死んだ>とき、つまり地球の肉体に戻らないという決断がなされたとき、<その人>は<自分>のエネルギーをその存在のエネルギーのパターンと混ぜ合わせて、その光の一部となっていきます。この深いレベルのパターンは、もはや<外>にあるものではなく、自分の基本的パターンを構成しているものと同じ霊的実在なので、それと融合できます。生きたままでも人はこれを体験することができます。想像できる最高の愛と慈悲を持ち、すべてを受け入れてくれる覚醒意識の電磁場とともに自分がいるところを想像するのです。自分の意識のなかにそうした<人間>が現れるように、心から願ってください。そうしながら、自分のエネルギーの場とその人の場とが一つになったらどんな感じがするだろうか、と想像してみましょう。


こうした融合を感じるには、呼吸をして、今の瞬間を目覚めた意識をもって感じなくてはなりません。揺らがず、目覚めて、落ち着いて自分の肉体のなかにいるのです。しっかりと肉体のなかにとどまって、今の瞬間に、<今ここ>に根ざす、そうした意識が融合を生み出します。細胞のなかで脈動を起こすのは覚醒意識です。目覚めた意識は必要条件です。


必要なのが呼吸だけならば、誰でもが<不分離>の境地にいるでしょう。自然の食べ物を食べるだけですむのなら、自然食のレストランで食べている人は皆悟っているはずです。覚醒意識は意識的に手に入れるものです。覚醒意識のパワーをこのすばらしい肉体のシステムに応用しなければ、脈動するパワーを発射したり、そこから生まれるいのちを感じたりすることもありません。


瞑想をするとき、この融合のプロセスを忘れないでください。<あなた>のエネルギーの場と<神>のエネルギーの場とがいっしょになって、一つのパターンを持つパワーとして脈動することが可能です。二人以上の人が集まると、意識のめざましい拡張を体験できるというのはこういう理由からです。


この脈動を感じたければ、意識を呼吸に向けるだけでいいのです。脈動を起こすのは呼吸だということを覚えていてください。呼吸と脈動の両方を意識していれば、ひどい悪夢のような状況のなかで恐怖に満ちた体験をしていても、同時に、そのなかを一貫して振動するすばらしいパターンを感じることができます。



質問者 マハラジ、あなたは私の前に座り、私はあなたの足もとにいます。私たちの根本的な違いは何なのでしょうか?

マハラジ  根本的違いなど何もない。

質問者 それでも、どこか実際に違いがあるはずです。私はあなたのもとに来ましたが、あなたは私のもとには来ません。

マハラジ  あなたが違いを想像して、あちこちへと「優れた」人を求めてさ迷うのだ。

質問者 あなたもまた優れた人です。あなたは真実を知ると言明しますが、私はしません。

マハラジ  知らないからといって、あなたが劣っていると言っただろうか?そんな差別を生みだした者たちに証明させるがいい。私はあなたの知らないことを知っていると言いはしない。事実、私の知っていることは、あなたよりはるかに少ないのだ。

質問者 あなたの言葉は賢明で、立ちふるまいは高尚、恩寵(おんちょう)は偉大です。

マハラジ  私はそのようなことをまったく知らないし、あなたと私の間に何の違いも見ない。私の人生は、あなたの人生と同じように出来事の連続だ。ただ私は固執せず、過ぎ去るショーをただ過ぎ去るショーとして見ているだけで、あなたは物事に固執し、それとともに動き回るのだ。

質問者 何があなたをそのように冷静にさせたのでしょう?

マハラジ  何も特別なことはない。私のグル(師)を信頼するということが起こっただけだ。彼が、私は私自身以外の何ものでもないと言い、私は彼を信じた。彼を信頼し、そのとおりに生き、私ではないもの、私のものではないものに注意を払わなくなったのだ。

質問者 私たちの信頼が言葉や名目ばかりなのに、なぜあなたは師を完全に信頼するという幸運に恵まれたのでしょう?

マハラジ  誰が答えられよう?ただそうなっただけだ。ものごとは理由も原因もなしに起こる。そして結局のところ、誰が誰なのかなど問題ではない。私に対するあなたの高い評価も、あなたの意見に過ぎない。あなたがいつそれを変えても不思議はない。なぜ人の意見を、たとえ自分の意見でさえ、そんなに重要視するのかね?

質問者 それでもあなたは違います。あなたのマインドはいつも静かで幸福なように見えます。そしてあなたのまわりで奇跡は起こっています。

マハラジ  私はそんな奇跡など何も知らないし、自然がその法則に例外を許すとも思えない。すべてが奇跡だとするなら別だが。私にとってそのようなものは何もない。ただその中ですべてが起こる意識が在るだけだ。それは皆の体験においてまったく明らかだ。あなたが注意深く見ていないだけだ。よく見てみなさい、私が見るように。

質問者 あなたは何を見るのでしょうか?

マハラジ  私もまたあなたが見ているものを今ここで見ている。ただあなたの注意の焦点が間違っているだけだ。あなたは自分自身を自覚していない。あなたのマインドは完全に物や、人や、観念に占有され、けっして自分自身とともにいない。自己に焦点を合わせ、自らの存在に気づきなさい。自分がどのように行動しているのか見てみなさい。行動の動機と結果を見守りなさい。あなたが自分のまわりに、不注意によって築いてきた牢獄を見てみなさい。あなたが何ではないかを知ることによって、あなたは自分自身を知ることになる。拒否と否定を通してあなたは真我へと帰り着く。ひとつ明らかなことは、真我とは想像されたものではない。それはマインドの産物ではないということだ。「私は在る」という感覚さえ継続しない。それはどこを探すかを知る有用な指針ではあるが、何を探すのかには用をなさない。ただよく見てみなさい。ひとたびあなたが、これが自分だと指し示すことができるものは何もなく、「私は在る」ということ以外に自己を語ることができないと確信すれば、「私は在る」という指針の役目は終わる。もはやあなたは、自己が何なのかを言葉の上に置き換えようなどとはしないだろう。必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力することなく帰り着くだろう。私たちの唯一の違いは、私は私の自然な状態に気づいているが、あなたはそれを見失っているということだ。あえてそう思わないかぎり、装飾品として加工された金が、金粉の金より価値があるわけではないように、私たちも異なるのは外見だけで、存在においてはひとつなのだ。真摯に日々それを求め、尋ね、問い、その探求に生涯を捧げるならば、私たちはそれを見いだすだろう。


呼吸。脈動。融合。…イズミ。一冊出すのに何年もかかる作家は嫌いだ。ファンの気持ちを考えてくれ。毎日進捗状況の報告だけでもするのが義務だろう。義務だ。
今日もありがとうございました。
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