自分が非常に嫌っている<外の世界>のことに、特に注意を払ってください。そうしたことが、自分が何に対して批判的な反応を示すのかということを如実に語ってくれます。人はフィルターをつけたまま、あらゆる瞬間にのぞみます。人は自分が見たいものを見、見るだろうと予期していることを見ます。本当に起こっていることは見えていません。自分が見ているのは、相手はこんな人間なのだという、自分が創り上げたイメージを正当化するものなのです。ここですべきことは、エゴの主張とは正反対のことです。エゴは、「あいつらを近づけるな。自分を守るのだ。あいつらとかかわるな」と言います。けれども、その正反対のことこそ、すべきことなのです。つまり、その感情を自分のなかに取り入れるのです。一人、神聖さのなかで瞑想するのではなく、全体性のなかで瞑想してください。全体性というのは、自分のすべての部分、そして人生のあらゆる面を受け入れるという意味です。


誰かに対して変わらぬ愛情を持ちつづけることは不可能である、という考えはまちがっています。愛の状態にいる人々は愛という状態のなかにいるわけで、それは生まれたり消えたりしません。それは不変のものです。愛の状態にある人々は、毎日のあらゆる瞬間を、愛を探し愛を見つけるために使っています。



上記の一コマ漫画は、フィルターが恋愛関係にどう影響するか、ということをまさにぴったりと表現しています。比喩的に言えば、私たちは、分離という幻の金魚鉢のなかにいます。金魚鉢はエゴを表しており、外界の感覚によって作られています。ある意味では、人をすべてから切り離して閉じ込める殻です。そこではおたがいを見つめるときに、二人をへだてるものを見ます。さらに、自分の金魚鉢を見つめてばかりいるので、相手の金魚鉢がめったに目に入らないし、当然ながら、相手の魚も見えません。人々が、<恋愛している>というときの関係はこうしたものです。孤独で孤立しており、他人に気づいてもらえないという感覚は、金魚鉢のなかに住んでいるから生まれるのです。その金魚鉢は、人生、愛、人間関係などについて自分が持っている考えや固定観念によって作られます。


けれどもここでほんとうに必要なのは、自分のなかに”大いなる光”を見つけようとすることです。探す方法は無数にあります。”大いなる光”のパワーが心を暖めてくれるでしょう。そうすると、フィルターが溶けて、愛が流れ込みます。心を開けないのは、あなたのなかで<心の傷>が網の目のようにがっちりと根をはっているからです。傷つけられるのではないかと人は怖れますが、それは、自分がいかにパワフルで、豊富な叡智を備えているのかを忘れてしまっているからです。”大いなる光”をあらゆるもののなかに見、自分が”大いなる光”であることをいつも覚えていると、内なる安心感が築き上げられていきます。そうすると、やがて真理が見えてきます。



幻影のカムフラージュが効果を発揮しているように見えます。けれどもじつは、その奥にある<いのち>こそが本物なのです。それは目に見えるものすべてのなかにあります。この真理に目覚めるために、あなた方はおたがいを創造したのです。それは神秘的ですばらしい目覚めです。それをやりとげるには、多くの努力が必要です。けれども忘れないでほしいのは、あなたの本来の性質は心が大きく開いて平和である、ということです。一度も閉じることなく、永遠にすばらしく心が開いていて、自由であることです。苦しみもなく、疑いもなく、混迷もなく、怖れもない状態です。心をゆったりとさせて、創造界のあらゆるものは一つであることを知ってください。形のあるものもないものも、一つです。”大いなる源”と物質は同じです。あなたが存在するということは、あなたは”大いなる一”だということです。



質問者 わたしは画家で、絵を描くことによって生計を立てています。これは霊的見地から見て価値あることなのでしょうか?


マハラジ  あなたは絵を描くとき、何を想うのだろうか?


質問者 私が絵を描くときは、そこに絵と私自身があるだけです。


マハラジ  あなたはそこで何をしているのだろう?


質問者 絵を描いています。


マハラジ  そうではない。あなたは絵が描かれているのを見ているのだ。あなたは見守るだけで、それ以外はすべて起こるのだ。


質問者 絵がそれ自身を描いているのでしょうか?あるいは何かより深い「私」あるいは神が描いているのでしょうか?


マハラジ  意識そのものがもっとも偉大な画家なのだ。世界全体が絵画だ。


質問者 誰が世界の絵を描いたのでしょう?


マハラジ  画家は絵のなかにいる。


質問者 絵は画家のマインドのなかにあり、画家は絵のなかにいる。そしてその絵は、絵のなかの画家のマインドのなかにある! この無限の状態と次元はばかげていませんか?私たちが絵のなかにあるマインドのなかの絵について語る瞬間、高次の観照者が低次を観照しているという、かぎりない観照者の連鎖となります。それは二つの鏡の間に立ち、そこに映る群衆に驚いているようなものです。


マハラジ  まったくそのとおりだ。あなたはひとりでそこには二重の鏡がある。その二つの合間であなたの形と名前は無数に存在するのだ。


質問者 あなたはどのように世界を見ているのでしょうか?


マハラジ  私は画家が絵を描いているのを見ている。その絵を私は世界と呼び、画家を神と呼ぶ。私はそのどちらでもない。私は創造しないし、創造されたものでもない。私はすべてを含み、私を含むことのできるものは何もないのだ。


質問者 私が樹や、顔や、夕日を見るとき、その絵は完全です。私が目を閉じるとイメージはぼんやりして、かすんだ状態です。もし私のマインドが絵を投影するならば、なぜ愛らしい花を見るために目を開いていなければならず、目を閉じたときははっきり見えないのでしょう?


マハラジ  なぜならあなたの外側のほうが内なる目より優れているからだ。あなたの目はいつも外側へと向いている。あなたが霊的世界を見ることを学ぶにつれて、それが身体の目で見るよりもより色鮮やかで、完全なことを知るだろう。もちろん、いくらかの訓練が必要だ。だが、なぜ議論するのだろう?あなたが、絵はそれを描いた画家から生まれたと想像するからだ。あなたはいつも理由や原因を探している。因果関係はマインドのなかにだけ存在する。記憶が継続性という幻想を与え、繰り返しが因果関係の概念をつくり出すのだ。ものごとが繰り返し一緒に起こるとき、私たちはそこに因果関係を見出そうとする傾向がある。それは精神的習慣をつくり出す。しかし、その習慣は必要なものではないのだ。


質問者 あなたは世界が神によってつくられたと言ったばかりです。


マハラジ  言語はマインドによって、マインドのためにつくられたひとつの手段だということを覚えておきなさい。ひとたび、あなたが原因を認めるならば、神が究極の原因であり、世界はその結果となる。それらは異なるものだが、分離してはいない。


質問者 人びとは神を見ることについて語っています。


マハラジ  あなたは世界を見るとき、神を見ている。世界を離れて、神を見るということはない。世界を超えて神を見るということは、神となることだ。あなたは光によって世界を見る。その光が神であり、それが「私は在る」という小さな閃光だ。一見とても小さく見えるが、それは知ることと愛することという行為のはじまりと、終わりなのだ。



今日をありがとうございました。
03 2024/04 05
S M T W T F S
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody