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今夜書きたいことはフィオラが語った「円舞(えんぶ)」というあり方。先日ラインダンスについて何か語ろうとしていたが、円舞も辞書的な意味とは違うらしい。「第一の扉」を開くことについて書いたが、「ある」は一瞬を切り取った静止画ではない。それは連続体で人の「あり方」そのものだ。

無条件に今自分を許し続ける、そういうあり方をすると人は今感じる「陰(かげ)」を許すあり方をすることになる。怒り、怖れ、ねたみなど一般的にネガティブな感情と呼ばれる感情も存在をそのまま許される。この正体が何なのかどう変容するのかはわからない。そしてフィオラはこの陰(オン)こそ人と人の集まりの存在理由であり、この地上にわざわざ生まれ体験する意味なのだと語る。だが同時に、苦しませるためではなく、直面し統合するための一時的なメッセージであり、未だ愛されていない愛だと発言する。

無条件で今の自分を許し続ける生き方をすると。人はどうなるのだろうか。怠け者になる…?
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
何も足さない、何も引かない。今このままの自分を許す。
陰を「変えようとか削除しようとしない
外部に責任転嫁せず、ただ全力で思いっきり体験する。
(これはセドナ・メソッドやリリース・テクニックとは異なる。手放そうとすらしない。指向性をもたない)

これをフィオラは今日「円舞(えんぶ)」と呼んだ。

初期の陰についての発言はこうだった。

創生の砌より光の子に幾度も釘をさしてきました
愛は道しるべ 人の中に神をみよと
陰と調和しなさい
たとえそれが己を飲み込む蛇にみえても
震える手で陰に触れなさい
心に映る陰に留まりなさい
羅針盤は少しも狂っていないのです
全身全霊で今を生きなさい

陰(かげ)
あなたは導きにいつも気づいているはずです
陰は毎日あなたの心をよぎりませんか
舌打ちをしていませんか
どうして陰から逃れようとするのですか
あなたが生まれてきた意味はこの陰を迎え入れ みつめることだったはずです
光には見えないことを覚悟で ここにやってきたはずです
あなたの一番の味方から目を逸らすその態度をまずみつめなさい

陰との調和こそ人生の基本であり、陰を支配しろとか押しやれとか誰も言っていない。
円舞とはありのままの自分の受容だ。他人の受容でも神の受容でもない
円舞の周囲の人間の感情に配慮する必要はまったくない、とフィオラは言った。それは周囲の人間の責任だと。
それはつまり怒りを感じて、人や神と喧嘩しても一切構わないということだ。
円舞なら。ただの責任転嫁ではなく、それが自分を受容した円舞であるなら一切問題はない。
自分を受容すれば、演劇内容は何でもよい。ありのままの自分を受容した時に、陰はそのまま陰であるか、凶暴性を秘めているのか、実際自分でやってみるまではわからない。
怒りには二種類ある。
怒りを感じている自分を「受容せずに」怒ったり怒らなかったりする場合と、「受容して」怒ったり怒らなかったりする場合。
愛について語るフィオラは、それ良く言ってもかなり自己中、悪い場合犯罪者を量産するんじゃ?というような懸念を呼ぶあり方を勧める。

どんな時も自分を許し、大胆に感じきるあり方がどういうものになるのか、やってみないとわからない。フィオラの選曲は 「use me」 いつもどおりふざけている。「ハナミズキ」のあとがこれだ。
お前、あの女に利用されてるぞ。だからなんだ?他人の狙いなんか構うな。内側の信号を信頼するとはそういうことらしい。


 解放が特別なら、あなたは永遠に解放されないと思いませんか。解放は1秒もかからないとした賢者の発言が残っているのはなぜでしょうか。この世は時間のかかることばかりなのに、あなたが求めて幾世も彷徨う果実に時がかからないことを信じられるでしょうか。解放は特別ではないということです。そう思いませんか。あなたが解放を求める「本当の」動機は何でしょうか。苦しいからですか。求めるのと、解放は同じ瞬間に起きるのでしょうか。今というこの瞬間しかないなら「両立」するのでしょうか。なぜみつからないのでしょう。求めるのをやめるとは演技ではないのです。本当に求める動機がなくなったということです。

今日もありがとうございました。
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