しっかりおしよっ
すかぽんたんっ!



全国の女子高生の皆さん
今週の山場~!
ポチッとな


この日記のデザインで一番気にいっているのが左上の白光だ。あらゆる色を混ぜると絵の具では黒になり、光では白になる。私はこれを探している。外部を探しても見つからない。私たちが白光そのものだから。


仏教では色が無いこともわかっているから透明な光と呼ぶ。光ですらないのもわかっている。フィオラは白と呼び、バーソロミューは虚空や純粋な覚醒や潜在的可能性と呼ぶ。純粋な覚醒という呼び方は、本当にすばらしいといつも感じる。この覚醒はいつも目覚めている。


これは動くエネルギーではなくて、静止している。静止しているとはどういう意味かと言うと、その上のどんな創造物とも違って、ありとあらゆるエネルギーを生み出す源であり、絶対の「超越」「侵食」の「ある」なのだ。


絶対の超越とは、今あるどのようなものも超越するということで、たとえば宇宙を完全消滅させた場合に、この「ある」だけは傷がつかない。次元が違うところに「ある」。次元が違うというのは5次元とかそういう話ではなく、これだけは無限に次元を上回る。宇宙消滅後も存在し続けるだけでなく、今の私たち「意識」が生まれる前から存在している。私たちの母である源の球体を生んだのがこの「ある」だ。そして、私たちが呼ぶ「わたし」という感覚の正体はこれの感じている感覚そのものだ。ゆえにわたしたちは不死であり死ぬことはできない。


空間という単語のイメージとは近い。だががらんどうの空間ということではなく、すべてのエネルギーに満ちている。完全な調和と完全な静止。無限の愛などを含む、神の無限のエネルギーもその他のものも全てここから引き出される。


今これを便宜的に白光と呼ぶとすると、私の目的は白光を意識の中に感じ、くつろぐことだ。常にくつろぐ。どの瞬間もくつろぐ。全ての否定を受容するためには、もぐら叩きをするのではなく、それしかないのだろうと思う。


意識していようとなかろうとみなさんの状況もまったく同じだ。こんな日記を読んでいるなら、私よりは詳しい方が多いと思う。日常生活に振り回されながら、奥の白光のみに意識を集中する活動瞑想状態を続けることの「超難易度」。


やってられるか。と投げても、私たちはやっている。全員の今が道そのものだ。



 肉眼で見えるものは影なのです。その奥の光、背景の光には境界線がありません。ひとつ、です。否定はもう肯定され愛されているのです。あなたがすべきことは何もありません。今のあなたが影を追っているから光に気づかない状況を生んでいます。一歩も動かないでください。動きながらくつろぐことによって。


 かつてそれ以外のものであったことがない。それはなんですか。



今日もありがとうございました。アラホラサッサー
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