あなたがこの地球に生きている理由は、あらゆる瞬間は本質的に変えられるものであり、自己変容の力がそなわっているということを知るためです。


怖れおののく心が創り上げたひどい悪夢のような状況にあっても、まさにその恐怖のなかで、この変容の力を呼び起こすことができることに気づきます。


無意味に苦しむ必要はありません。無意味に苦しむことは死と同じです。けれども、苦しみのなかにあっても、愛や思いやり、美やユーモアをもたらし増やすことができるのだ、と知りながら苦しむのは、いのちを体験することです。あらゆる瞬間にいのちのさまざまな側面をすべて体験するために自分は地球界にやってきたのだ、ということを深いレベルで理解できると、それぞれの瞬間が何にも替えがたい大切な瞬間となります。


そして、何も変えたり避けたり押さえつけたりする必要がない、ということがわかります。


大地を一歩踏みしめるたびに、人は地球に何かを与えているのです。愛や思いやり、ユーモアや理解を持ってそれを与えているのか、または無力感や苦しみや悲しみを持ってそれを与えているかのどちらかです。


忘れないでください。世界は一つであり、人々は一つであり、意識は一つです。


怖れや醜さなどの感情をじっと味わいながら、それらと親密になっていくと、非常に興味深いことが起こります。怖れや不安は多くの顔を持ち、多くの発展過程を経て、変化します。自分の体のなかでそれらがどんな感じがするか、発見してください。重い感じですか。締めつけられる感じですか。熱いでしょうか。それとも冷たいですか。どんな形をしていますか。そうして、しばらくそのままでいると、やがて平和も同時に感じられる境地に移っていきます。その怖れのなかに、その苦しみのなかに、平和な場所を実際に感じ取ることができるのです。


答えは基本に戻ることです。まず第一に、自分自身のよき友人となって、どんな怖れなのか言葉にし、それに直面し、それを感じます。どういうことかというと、心の扉を開いて、その恐ろしい出来事のなかで生じたさまざまな感情の存在をすべて認めるのです。すべてに心を開いてください。イメージや肉体の感覚が湧き起こるにまかせましょう。ほとんどの人は、感情とともにじっとしていることを怖れます。頭がまずしようとすることは、なぜ自分が怖れているのかを説明することです。<なぜ>という疑問に入り込まないでください。


感情をじっと味わいつづけていると、それ以外のものが生まれる可能性が出てきます。そのとき、「怖れがある。今、私のなかには怖れがある」などと、感情を口に出して言ってください。そして自分の全意識をそれに集中します。こうすることによって、小さくちぢこまったエネルギーがあるところに、もっと広大で賢く完全な意識のパワーをもたらすことになります。するとこの二つのエネルギーが混ざり合い、おたがいに<影響>し合います。それらは、怖れだけのときとはまったくちがう感覚のものに変化しはじめます。


たとえどれほど絶望していても、混迷や疑いや闇の感覚の向こうにある、理解と明晰さへ達することのできる部分が、人のなかにはあります。その部分は、意識のすばらしい土台を作っている覚醒意識に敏感です。覚醒意識は、元気にあふれる輝かしい平和ないのちの感覚で、あらゆる体験を通して、あなたとともにあるものです。怖れは、しばしばそうした覚醒意識への入り口となります。怖れとともにいて、それが自分を平和へと運んでくれるにまかせようとするならば、怖れはあなたへの贈り物となります。B



私の愛する兄弟たちよ、あなた方の多くは、神と呼ばれる存在は、陰気で恐ろしく、怒りっぽい、審判を下す人格を持つと教えられてきた。だが、神はけっしてそのような存在ではない。長々と説教し、審判を下し、弾圧する神は、人間の心の中にしか存在したことはないのだ。ある人々を裁き、別の人々をほめるような神を創造したのは、人間にほかならない。それは人間の神であり、人間とその意志による創造物なのだ。


私の知る神、私の愛する神、そして私自身と私である王国から流れ出す力である神は、完全なる愛の神であり、裁きとは無縁の愛の神だ。神は愛以外の何ものでもないが、同時にそれ以外のすべてでもある。神は、あなたがこれまで推測してきたよりも遥かに大きな愛で、あなたのことを愛している。なぜならそれは、あなたである人生そのものであり、あなたが歩く大地であり、あなたが吸い込む空気であるからだ。それはあなたの皮膚の色であり、すばらしい眼の輝きであり、そっと触れる手のやさしさなのだ。それは、あなた自身であるあらゆる瞬間の中のあなたであり、あなたが考えるあらゆる思考の中のあなたであり、あなたが行うあらゆる行為の中のあなたであり、あなたの魂の暗い陰の部分でさえある。


神はすべてを包含する力であり、それはあらゆるものである。それは水面の上を吹く風であり、色づく木の葉であり、深い色合いのバラの単純さである。神は、抱き合う恋人たちであり、笑っている子どもたちであり、蜂蜜色をした髪の光沢だ。それは朝に昇る太陽であり、夜にまたたく星であり、真夜中の空に昇っては沈んでいく月である。神は、美しい昆虫であり、謙虚に空を飛ぶ鳥であり、嫌悪感を引き起こすような醜い蠕虫でもある。神は、動きや色、音や光だ。神は情熱である。神は愛である。神は喜びである。神は悲しみである。存在するもの、つまり在るものすべては、あなたが「父なる神」と呼ぶものである。それは生きとし生けるものすべてであり、自分自身であるすべてを愛する存在なのだ。


神は、玉座に座りながら、生きることすべてに関して審判を下すひとりの人格ではない。神とは、生きることすべてであり、躍動するあらゆる瞬間だ。それは、存在するあらゆるものの絶え間ない継続性であり、永遠性である。


神は、無限で至高の存在性、つまり分割できない「在ること」の総体のことである。そしてその「在ること」は、あなたをとても深く愛しており、だからこそ、「完全─不完全」、「よい─悪い」、「ポジティブ─ネガティブ」といった幻をあなたが創造するのを許してきたのだ。そしてそれは、あなたの知覚を通して、あなたが知覚したものになってきた。つまり、神は在るものすべての総体なのだから、正しいことだけでなく、間違ったことでもあり、美しいものだけでなく、醜いものでもあるのだ。それは神聖なものだけでなく、卑しいものでもあるのだ。


私の知る神は、あなたがこれまで想像してきたよりも遥かに大きくて深い愛であなたを愛している。なぜなら、あなたが望むどんな生であろうと、神はあなたがそれを創造することを許してきたからだ。「父」は、つねにあなたを愛してきた。神はこれ以外の見方であなたを見る方法を知らない。なぜなら、「あなたであるもの」は彼そのものでもあるからだ。


自分自身の考え方によって、そして他人の考え方を受け容れることによって自分自身に審判を下してきたのは、あなた自身だけである。自分はできそこないだと自分に感じさせてきたのは、あなただけである。「父」を使って、自分が望むどんな真実でも現実でも創造する能力を持っているあなたは、自分の人生に対して審判を下せるただひとりの審判者なのだ。何がよくて何が悪いのか、何が正しくて何が間違っているのか、それらを決めてきたのはあなたにほかならない。だが、生命と呼ばれる「在ること」においては、そのようなものはまったく存在しない。あらゆるものは単に、「全能の神」と呼ばれる「在ること」の一部であるにすぎないのだ。あなたの審判は、さまざまな創造的な現実にあふれるこの天界で、あなたが創造した幻にすぎないのである。R



縮めるには、まず張らねばならない。
弱めるには、まず強めねばならない。
廃するには、まず興さねばならない。
奪うには、まず与えねばならない。
これを微明(びめい)という。
荘子


曲がればまっ直ぐであり
空であれば満ちており
古ければ新しい
老子



質問者 宇宙は因果関係の法則に支配されるのか、それともその法則の枠外で存在し機能するのかという質問がたびたび取り上げられてきました。すべては、たとえ小さくとも因果関係なしに、まったく何の理由もなく現れては消え去るというのが、あなたの見解だと見受けられますが。


マハラジ 因果関係とは、物理的あるいは精神的空間のなかで起こる出来事の時間的連鎖を意味する。時間、空間、因果関係は精神的領域にあり、マインドとともに現れては消えていく。


質問者 マインドが作用するかぎり、因果関係の法則に効力があるのですね。


マハラジ すべての精神的なものがそうであるように、いわゆる因果関係もそれ自体が相矛盾するのだ。存在のなかで、ある一定の原因をもっているものは何ひとつない。宇宙全体がもっとも小さなものの存在の一因となる。宇宙がそのようではないかぎり、何ひとつあるがままでは在りえない。あらゆるものの土台と源が、起こることすべての唯一の原因であるとき、因果関係を宇宙の法則と見なすのは不当だと言えよう。宇宙の潜在的可能性は無限なため、その内容物によって限定されることはない。しかもそれは基本的に、完全に自由な原理の表現または顕現なのだ。


質問者 ええ、結局ひとつのものが、ほかのものにとって唯一の原因だとするのは、まったく間違いだということがわかります。しかし、実際の人生では、結果を見こんで行動を起こすのが私たちのつねなのです。


マハラジ そうだ。無知のために、そのような行動はいたるところで見られる。全宇宙がそれを起こさないかぎり、何ごとも起こりはしないということを人びとが知るなら、彼らはよりわずかなエネルギーでより多くを達成するだろう。


質問者 もしすべてが原因全体の表現だとするなら、ひとつの達成に向けての目的ある行動などというものがありうるのでしょうか?


マハラジ 達成しようとする衝動自体も全宇宙のひとつの表現なのだ。それは潜在するエネルギーが、ある一定の地点で現れたことを意味するにすぎない。時間という幻想が、あなたに因果関係について語らせるのだ。過去と未来が共通のパターンの一部として、永遠の今において見られるとき、原因と結果という概念は効力を失い、創造的自由が現れる。


質問者 それでも、どうして原因なしに何らかの存在が現れるのか、私には理解できません。


マハラジ 私が、あるものが原因なくして在ると言うとき、それはひとつの特定の原因なくしてという意味だ。あなたの誕生のために、あなたの母親は必要なかった。誰かほかの女性から産まれることもありえたのだ。しかし、太陽と地球なしには産まれてくることはできなかったろう。それらでさえもっとも重要な要因なしでは、あなたの誕生の原因とはならないだろう。産まれてきたいというあなた自身の欲望なしには。誕生を与え、名前と形を与えるのは欲望なのだ。欲せられたものが想像され、望まれて、触れることができ、思い描くことのできる何かとしてそれ自身を顕現させる。このようにして、私たちの住む個人的な世界は創造されるのだ。真の世界はマインドを超える。私たちはそれを快楽と苦痛、正と誤、内と外とに分割された欲望の網の目の向こうにかいま見る。宇宙をあるがままに見るためには、その網を越え、一歩踏みださなければならない。難しいことではない。なぜならその網は大きな穴でいっぱいだからだ。


質問者 穴とはどういう意味でしょう? そして、どうすれば見いだせるのでしょうか?


マハラジ 網とその多くの矛盾を見るがいい。ことあるごとに、あなたは何かを為し、そして取り消す。愛と平和と幸福を求め、熱心に働きかけたあげく、苦痛と憎悪と戦争を生みだす。長寿を求めながら過食し、友情を求めながら搾取する。あなたの網の目が矛盾に満ちていることを見てとりなさい。そしてそれを取り払うのだ。見るという行為そのものがそれを消し去るだろう。


質問者 見るという行為がそれを消し去るのならば、見ることと消えることの間に因果的関連があるのではないでしょうか?


マハラジ たとえ概念としても、因果関係は混乱にはあてはまらない。


質問者 欲望はどの程度まで因果関係の要因となるのでしょうか?


マハラジ 欲望は多くの要因のなかのひとつだ。あらゆるものには無数の因果の要素がある。しかし、そのすべての源はあなたのなかにあり、それは愛と力と光をすべての経験に与える至高の実在なのだ。だが、この源が原因なのではなく、またどの原因も源ではない。それゆえ、私はすべてのものに原因はないと言うのだ。あなたはどのようにしてものごとが起こるのか、その由来をたどってみようとするかもしれない。だが、なぜものごとがあるがままなのかを見いだすことはできない。ものごとはあるがまま在るのだ。なぜなら宇宙はあるがまま在るからだ。


03 2024/04 05
S M T W T F S
25 26 27
28 29 30
HN:
Fiora & nobody