nobody : てやんでえ…七夕がなんでぇ…

屋台のオヤジ : 旦那ぁ番組の収録中なんでしょう?

nobody : ほっといてくれ!僕はね…スターなんだよ…そりゃぁ猫界でも貴公子っていうのは事務所が勝手につけたプロフィールだよ。でもノラ出身ってすっぱ抜かれた途端、レギュラー番組は降板、あげくにこんな着ぐるみで汚れ仕事させられる始末…


フィオラ : モツ煮とおでんセット持ち帰りだ。…特盛りでな。

屋台のオヤジ : へい!

フィオラ : わかるぜ兄さん。着ぐるみは脱げても汚れたレッテルは脱げねえもんなぁ。

nobody : 汚れてるのは世間のほうだ!真夏の花火大会ブログなんて衝動だけのブログに踊らされて!結局そんな肩書き全部幻想なんだよ!

フィオラ : よかったじゃねえか。幻想から目が覚めて。

nobody : えっ?

フィオラ : あのグラビアモデルも不自然な花柄の浴衣も…そんな幻にすがって生きる輩には死んでもわからんものを兄さんはみつけたのさ……本当の自分、ってやつ。

nobody : 本当の自分?

フィオラ : 今日は奢りだ!ぱあっといくか!ぱあっと!


nobody : はい!

屋台のオヤジ : お持ち帰り、お待ち。

フィオラ : おっすまねえな。そんじゃそういうことで。

屋台のオヤジ : まいど!

nobody : 不思議な人だ…

屋台のオヤジ : はい!お勘定。


nobody : って僕の奢りですかぁぁ!???



神とは単なる概念ではありません。それは圧倒的にすばらしい意識の感覚なのです。それは、「すべてよし。いままでもつねに完璧であったし、これからも完璧でしかない」ということを、思考を超えた次元で知り、その境地に安心して完全に憩うということです。あなたのなかには、完全に心安らかでいのちにあふれ、目覚めている部分があります。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに自由が存在します。自分のなかのその部分を見つけてください。そこに完全なる心の平安と絶対的安全が存在します。それを求めてください。そうすれば見つかります。何度も何度も探してください。あなたがこの世に来たのはそのためです。それが人生の旅の目的なのです。


精神の低振動波によるパターンについてはよく知られています。それらは、裁く心、独善的態度、自己憐憫、責任転嫁などですが、精神のすばらしさも忘れないでください。知りたいことを学ぶために精神を使う能力が自分にないとしたら、あなたの人生はどんなものになるでしょうか。抽象的な概念と格闘したり、インスピレーションとか直感的思考などという、精神活動上の喜びを体験したりということがないとしたら、どうでしょうか。精神の高振動波がなかったら、人間の世界はどんなふうになるか想像してみてください。


欲望を抱くことと執着を捨てることは同じことの表と裏にすぎません。あなたが本当に求めているのは、欲望を抱くことも執着を捨てることも両方とも存在する意識状態です。普通、欲望は何かに向かう気持ちを指し、執着を捨てるのは何かから離れる気持ちを指します。ここで必要なのは、その両方を含みながら、どちらの方向性も含まない言葉、強いて言えば、あらゆるものを完全に受け入れるという意味の言葉です。執着を捨てるというのは、ほとんどの人にとって、エネルギーを失い、興味あることから身を引き、無関心になることを意味します。けれども実際は、真に執着を捨てた人は完全にその瞬間に意識があって、すべてにいつでも関心を向けることができます。



質問者 世界が幻想(その無常さではなく)であるという論理を否定している、ある有能な人びとによって書かれた非常に興味深い本があります。彼らによると、最低位から最高位にわたる生きものの階層が存在し、各々の有機体の複雑性のレベルが意識の深さ、広さ、強靱さを反映していると言います。成長のための形態の進化、意識の向上、無限の可能性の表現などにおいて、一貫してひとつの至高の法則が支配しているというのです。

マハラジ  そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。たとえそうであったとしても、それは単にマインドにおける視点にすぎない。だが事実は、宇宙全体(マハーダカーシュ)はただ意識(チダカーシュ)のなかにのみ存在し、そして私自身は至高の絶対性(パラマカーシュ)のなかに在るのだ。純粋な存在のなかに意識が現れる。意識のなかで、世界は出現し消滅していく。存在するものはすべて私であり、すべては私のものだ。すべてがはじまる以前にも、そしてすべてが終わった後にも――私は在る。すべては私のなか、すべての生きるもののなかに輝く「私は在る」という感覚のなかにその存在がある。非存在でさえ私なしには考えることもできない。何が起ころうとも、観照者としての私がそこにいなければならないのだ。

質問者 なぜあなたは世界の存在を否定されるのでしょうか?

マハラジ  世界を否定してはいない。私は世界を、広大な未知のなかの既知全体としての意識、その意識のなかの現れてとして見ている。はじまり、そして終わるもの、それはただの現れにすぎない。世界は現れるとは言えても、存在するとは言えない。その現れは、ある時間の比率においては非常に長い間続くだろうが、ほかの比率では非常に短いかもしれない。だが、結局は同じことだ。何であれ時間の範囲内にあるものは、はかなく実在性がない。

質問者 間違いなく、あなたはあなたを取り巻く現実の世界を見ています。あなたはごく普通にふるまっているように見えますよ!

マハラジ  それはあなたにとってそう見えるだけだ。あなたの意識界全体を占めるものは、私にとっては微小片にすぎない。世界は続いていく。だが、ほんのつかの間だ。記憶が、世界は継続するとあなたに考えさせるのだ。記憶のなかに生きていない私にとって、世界は意識のなかのつかの間の現れにすぎない。

質問者 あなたの意識のなかにですか?

マハラジ 「私」や「私のもの」といったすべての観念、「私は在る」という観念さえ意識のなかに在る。

質問者 それでは、あなたの「絶対存在(パラマカーシュ)」は無意識のなかにあるのでしょうか?

マハラジ  無意識という概念も意識のなかに存在する。

質問者 それでは、あなたが至高の境地にあるとどうやって知るのでしょう?

マハラジ  なぜなら、私はその中に在るからだ。それはただ自然な状態なのだ。

質問者 それを描写できますか?

マハラジ  それは原因なく、依存なく、関係なく、分割せず、創造せず、揺らぐことなく、問うことなく、努力によっては到達できないものとして、否定においてのみ表現することができる。どのような肯定的な定義も記憶によるものであり、それゆえ適切ではない。しかし私の境地は至高の実在であり、それゆえ可能であり、実現でき、達成できるものなのだ。


今日もありがとうございました。
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