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神秘体験とかではなくて、私がすごく楽になった瞬間があって、それはフィオラとこういうやりとりをしている時だった。


 それで何か尽きましたか。尽きたのは、あなたのカテゴリーでしょう。


あるはある。常にある。今ありのままのあるに対して境界線をつくり、複数のカテゴリーに分け、「どん詰まり」とか「絶好調」とか「いまいち」とか名前をつけて、このカテゴリーはあのカテゴリーより価値があるとかないとか、そういう判断を下しているからこそ、


この先のあるが気になるのだ。コントロールしたくなるのだ。そうしているから緊張しているのだ。


その頭の中の空想にすぎないようなカテゴリー、幻の境界線をすべて取っ払ってしまった時に、今目の前のあるをまるごと信頼できるか、自分に聞いてみた。


ある自体は失われたことがないのは明らかで、この瞬間のあるを信頼してもよいのだ。この瞬間はかならず次の瞬間を運んできてくれるのだから、この瞬間を味わってくつろいでよいのだ。そう思った瞬間に、肩の荷がすとんと降りた気がした。すごく楽になった。


「私」=行為者
の世界観の中では、仕事が山積みで、私は一人でそれをやり遂げねばならない。疲れる。休みがほしい。他人は不親切で、ときどき私をイジメる。ああ、残酷な世界だ。


↓ところが


ただある
の世界観の中では、この瞬間にくつろいでいて、カテゴリーがない。特に仕事はないのだ。ただくつろいでいるだけ。この人は勝手に動き、勝手に仕事をするのであって、ただあるがままくつろいでいる。そこには孤独がない。胸に鼓動を感じる。呼吸になにかが震える。


「わたし」とは誰なのだろう?



自分の人生はこのままで完全にあるべき姿であり、自分にふさわしい覚醒の道を歩くために、このような人生を自分で選んだのだということを、毎瞬毎瞬自分に言い聞かせると、真理が少しずつ意識に浸透し、あなたを変えはじめます。


二極性のなかで最も大きな悩みを人に与えるのは、自分と他者という二極への分化です。エゴのエネルギーの役目は、あなたを神から分離して孤立した存在とみなすことです。エゴに支配された意識の役目は、二極性という舞踏のなかであなたを踊らせ、それに関心を持たせ、あなたを喜ばせつづけることです。


二極性が演じる世界の内容のほとんどは、以前にしたことをもう一度したり、言ったり、考えたりすることで、それらはすべて未来や過去に関するものです。


大地に根ざすのは、いつもいまの瞬間においてのみなされます。


自分の「存在」のなかには二極性とは関係のない別のレベルがあって、そこに移行することもできるのだということを確信すると、愛を一貫して維持することができるようになっていくのが、自分でもわかります。


優しさをいまだかつてまったく持ったことがない、という人はいません。ただ自分のまわりの人が、あなたはこうだとかああだとか、あなたはこうであるべきだとか、ああであるべきだとか言うときには、その人たちの苛立ちを理解してあげてください。その人たちは、あなたには「愛」を示す義務があると考えています。ちょうどあなたも、彼らはあなたに「愛」を示す義務があると思っているように。最終的にはあなたも彼らもともに失望することになるでしょう。


自分がどれだけ愛と完全性を感じていられるかを、他人の言動のせいにすればするほど、その度合いにしたがって、あなたは失望させられることになります。確かな愛が見いだせる場所は、たった一つしかありません。


他人と関わっているときには、二極性の投影する世界に埋没しやすくなります。ですから、この世界の二極性の幻影を乗り越えて、あなたの心に宿る大いなる完全性のなかに憩うことを真剣に目指しているのかどうかと、私は問うのです。


もしそうなら、そのためには、何度もくり返し静寂さをもたらすことを、実践しなければなりません。自分のなかにある大いなる完全性のすべてが、その姿を現すように、静かにそして熱心に自分を導く必要があります。



質問者 深い眠りのなかには、今現在の現実感はありませんでした。

マハラジ  深い眠りにおける空白は、完全な記憶の欠如によるものだ。だが、幸福という総括的な記憶がそこにはある。「深い眠りのなかにいた」と言うのと「存在していなかった」と言うのとでは感覚の違いがある。

質問者 はじめの質問に戻りますが、生の源とその表現(つまり身体)との間には、絶え間なく変化しつづけるマインドの状態があります。この精神状態の流れは際限なく、無意味で苦痛に満ちています。苦痛がその変わることのない要因です。私たちが快楽と呼ぶものは、二つの苦痛に満ちた状態の狭間にすぎません。欲望と恐れは生の横糸と縦糸で、ともに苦痛でできているのです。いったい、幸福なマインドというものがありうるのでしょうか?

マハラジ  欲望とは快楽の記憶であり、恐れとは苦痛の記憶だ。それらはともにマインドを揺り動かす。快楽の瞬間とは苦痛の流れの間に起こるものにすぎないのだ。どうしてマインドが幸福になれるだろう?

質問者 私たちが快楽を求めたり苦痛を予期したりするときは、確かにそのとおりです。しかし予期せぬ、思いもよらなかった喜びの瞬間も存在します。不相応な、求めてもいなかった、神からの贈り物――欲望に汚されていない純粋な喜びがあります。

マハラジ  それでも、喜びは背景にある苦痛に対しての喜びでしかないのだ。

質問者 苦痛とは宇宙的な現実なのでしょうか、それとも単に精神的なものなのでしょうか?

マハラジ  宇宙とは完成されたものだ。そこに何も欠如していない完全性が在るとき、苦痛を与えられるものがあるだろうか?

質問者 宇宙は、全体としては完全かもしれませんが、詳細においては不完全です。

マハラジ  全体の一部も、全体との関連のもとに見られたとき、また完全となる。孤立したとき、それは欠陥をもち、苦痛の在処となる。何が孤立をもたらすのだろうか?

質問者 もちろんマインドの限界です。マインドには全体としての部分を見ることができません。

マハラジ  そのとおりだ。マインドはその本質上、分割し対立するものだ。統合し、調和をもたらし、部分のなかに全体を見て、全体との完全な関連性をもった部分を見ることのできる何か別のマインドというものが在りうるだろうか?

質問者 別のマインド――どこを探せばいいのでしょう?

マハラジ  限界をもたらし、分割し、相対立するマインドを超えた彼方だ。周知のように、この精神的過程が終焉したときだ。これが終わりを告げたとき、そのマインドが生まれる。

質問者 そのマインドのなかでは、喜びと悲しみの問題はもはや存在しないのでしょうか?

マハラジ  私たちが知るような望むべき、あるいは憎むべきものとしてではない。それはむしろ、愛がその表現を求めて障害にであうようなものだ。包括的なマインドとは、愛が活動のなかで環境と戦い、初めは挫折しつつも最終的には勝利をおさめるようなものなのだ。

質問者 魂と身体との間に橋を渡すものは愛なのでしょうか?

マハラジ  ほかに何があろう?マインドが奈落を生みだし、ハートが橋を架けるのだ。






今日もありがとうございました。
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