今がなにかわるいのか?と自分に聞いてみて、
「なにかがわるい」というノイズのような思考と、
「このままでいい」という言葉にもならない呼吸とがある。このままでいいというのは、善悪の判断が起こる前であり、今「ある」ものをそのまま「ある」として受け入れた状態だ。

ぶつぶつうるさいノイズの存在自体も受け入れてしまう。
呼吸は善悪とか、論理とかをまったく気にしていない。
なぜこれがこうなのか?という質問自体浮かんでこない。
頭と思考と論理が宇宙の謎を解き明かせるなら、もうとっくに誰かがそうしている。
できない、のだ。頭では、解けない。

だったら、肉体の中で、感覚で解き明かせるという説を実験してみようと思うのは自然な話だ。どっかの宗教じゃないのだから、お金はかからない。道具もいらない。

ただ呼吸をみる。吸う、吐く、みる。思考が浮かんでも、気にしない。息をみる。
感情が浮かんでも、気にしない。息をみる。息をみると肉体の中のことを感じ尽くせる。感情を体験し尽くせる。忘れる。忘れていい。忘れてるときも何かがみている。全ては起こっていることばかりで、ただ息を感じる。


前にも言いましたが、何世紀にもわたって、あなたの細胞は何かにしがみついているときが、最も安全なのだと思い込んできました。あなた方は、自分の世界が崩れないようにとしがみついています。少しでも油断すると、すべてが壊れてしまうのではないかと怖れているのです。あなた方は「自分」と「他人」を混同してはいけないし、「この」考えと「あの」考えとを混同してはいけないし、「自国」と「外国」とは区別しないといけないと思い込んで、努力していますが、それにもかかわらず、あらゆるものはつねにつながっているのです。あなた方がしようとしていることは、不可能なことです!


悟りの境地に憩うためには、神秘的な大いなる光のなかでくつろぎ、その光を外に向けて拡張するということを意識的にしなければなりません。くつろいでは拡げる、くつろいでは拡げる、ということです。


自分の内奥深くにゆったりとくつろいで、それから、大いなる光をできるだけ遠くまで放射するのです。これは一つの感覚です。その感覚のなかにすっと入ってください。


神の光は、あなたがそこにやってきて、その光のなかに入り、それを浴びるのを待っています。これを実践しはじめると、あなたの存在の至高の喜びというか、光があふれて外に流れ出すようになります。



質問者 私が見るかぎりでは、私の身体にも実在にも、何も問題はありません。どちらも私がつくりあげたものではなく、改善する必要もありません。何がおかしくなってしまったかと言えば、「内なる身体」です。マインド、意識、アンタカラナ、名前は何であれ。

マハラジ  あなたのマインドのどこがおかしくなったというのだろう?

質問者 落ち着きがなく、快楽に貪欲で、不快を恐れていることです。

マハラジ  快楽を求め、不快を避けようとすることのどこが間違っているのだろうか?苦痛と快楽の両岸の間を生の川が流れていく。生の流れとともに流れていくことを拒んだとき、それは問題となるのだ。生の流れとともにいくとは、来るものは拒まず、去るものは追わずという受容を意味している。求めず、恐れず、起こるままの現実を観察しなさい。起こることがあなたなのではなく、あなたにものごとが起こるのだ。結局、あなたは観察者でさえもない。あなたはすべてを包括する意識の究極的可能性であり、その表現、その顕現なのだ。

質問者 それでも、身体と自己との間には思考と感情の雲が横たわり、それが妨げとなっています。これら思考と感情は浅はかな、はかなく無意味なもので、私を盲目にし、息を詰まらせるただの思考のほこりにすぎません。それでもそれらはそこにあり、光を奪い破壊するのです。

マハラジ  確かに出来事の記憶が出来事そのものとして通用することはない。出来事の予測もまた同じだ。現在の出来事には何か独特な、以前起こったこと、あるいはこれから起こるであろうことにはない例外的な何かがある。生き生きとして、実在であり、輝くように際立っている。そこには過去も未来ももっていない実際の「真実のしるし」があるのだ。

質問者 「真実のしるし」を現在に与えているものは何なのでしょう?

マハラジ  現在のなかに、過去や未来から区別するような、特別な何かがあるわけではない。ほんの一瞬前、過去は未来であったし、未来もまたそうなる。何が現在をそれほど特別にするのだろう?明らかに、それは私の存在だ。つねに今ここに在るからこそ私は現実なのだ。そして私とともに在るものに私の実在は分かちあわれる。過去は記憶のなかに、未来は想像のなかにある。今現在の出来事のなかに、それを真実として際立たせる何か特別なものがあるわけではない。それは何かただ過ぎゆく一瞬のなかに起こる、時計の刻む音のようなものかもしれない。連続して刻まれる音が等しいということを私たちは知っているにもかかわらず、現在を刻む音は、以前記憶された、あるいは次に予期されるものとはまったく異なっているのだ。今現在に焦点を置かれたものは、私がつねに今に在るからこそ、私とともに在る。私が私自身の実在性を現在の出来事に与えるのだ。

質問者 しかし私たちは思い起こされたことがらも、現実のように扱います。

マハラジ  それが現在のなかに入りこんだときだけ、私たちは思い出について考える。今にもちこまれないと忘れ去られたことを思い出すことはない。

質問者 そのとおりです。現在のなかには一過性の事実に一瞬の真実を与える、何か未知なる要因があることがわかります。

マハラジ  未知と言うまでもない。なぜなら、あなたはそれがつねに作用しているのを見ているからだ。生まれて以来、かつてそれが変わっただろうか?ものごとや思考はつねに変わりつづけてきた。だが、この現在が真実だという感覚は、夢のなかでさえもけっして変わらなかったのだ。


今日もありがとうございました。
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