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欠乏充足システム。なぜかこういうテーマで書きたくなりました。


いまを見渡したとき、欠乏がみえる?充足がみえる?
8歳以後の私は、欠乏がみえているんです。


あの時、完璧をみることができたのに、その後は欠乏がみえる。
それは、比較なんです。


いつも過去と記憶と、記憶の呼び出しで今に欠乏を重ね合わせている。
みえるものは足りない部分だけ。


欠乏をみる人間は、欠乏を創造します。


超単純なんですが、このカラクリに気づくまでがやたら長かったりする。


素敵な日曜日か、陰鬱な日曜日かは、日曜日の条件ではなくて、いまをどう見ているかだけが影響します。


完璧をみる人間というのは、いつも愛をみようとする人間なんです。いつもありのままの自分を宥そうとする人です。


愛がみえるんじゃなくて、愛をみようとする人間は自身の抱える怖れから目を反らすことはできません。どんなに嫌なものでも、目を背けず、近づこうとする。開いて、近づきます。


一方的な断罪や拒否で、終わらせたつもり、にはなりません。


ダンスできるか、できないか。そうポール・フェリーニが言っていましたが、どんなにステップがへたくそでも、Shall We Dance?って永遠に呼ばれ続けているんですね。


じゃあ、いっちょ踊るか!それがわたしたちです。



アンジェラ・アキさんのCry 今日ちょっと聞き惚れ、載せたかったけど動画がない。せめて歌詞だけ。


あなたの名前そっと声に出す なぜか返事が聞こえる
まるで今もすぐそばに寝転がっているみたい


オルゴール箱から音楽をとれば ただの箱になるように
あなたのいない部屋なんて 思い出の倉庫に過ぎない


こんな夜はCry
蒼に染まりCry
理由なんてない 終わりには
月の胸でCry
星にすがりCry
Cry 涙のラプソディー


取り返せない時間や言葉を映画のように再生する
違ったラストシーン いくつも想像するの


こんな夜はCry
明かりを消しCry
近道などない 試練には
歩けるまでCry
笑えるまでCry
Cry 涙のラプソディー


鏡に映る自分が見覚えないほどに変わり果てた
あなたを失ったからと 自分まで消しちゃだめだ No No No No
焦らないでTry
時間をかけTry
理由はいらない スタートには
いつの日にかFly
自由になりFly Fly
それまでは Just cry Let it all out
歩けるまでCry
笑えるまでCry
Cry 追憶を奏でる 涙のラプソディー



いただいた光龍さんのコメントは、
ずっと(継続的に)奥に在り続ける実践から深淵の淵に至る、というものだと解釈しました。
マハラジは、思考を潜ませることを厳格に拒絶する、と言っています。
こういう優れたエネルギー実践をされている話を聞くと、本当に尊敬します。
わたしは誰か?そのわたしで在るなら、言葉は浮かぶか?
浮かばないなら、そこから生きているか?
在り方にどこまで純粋になれるか。
針をも通さない実践は、高度です。そして純粋です。みんな自分らしい歩みで、この道なき道を泣きはらしながら一歩ずつ歩み続けています。その歩み自体が光なんだと気づいた時、人生の疑問は一番嬉しいかたち、「いま」に融け去ります。
また気づきをいただきました。ありがとうございます^^


質問者 あなたの真我の実現は突然のものでしょうか、それとも段階的なものだったのでしょうか?

マハラジ  どちらでもない。それは永遠にそれなのだ。欲望と恐れがぬぐい去られたとき、それを実現するのはマインドなのだ。

質問者 真我の実現のための欲望もぬぐい去られたのでしょうか?

マハラジ  恐れることへの恐怖がもっとも奇妙な恐れであるように、すべての欲望に終止符を打とうと望むことは、もっとも奇妙な欲望だ。ひとつは、あなたにつかみ取ることをやめさせ、もうひとつは、あなたに逃げだすことをやめさせる。あなたは同じ言葉を使うかも知れないが、その状態は、同じではない。真我の実現を探し求める人は欲望に溺れない。探求者は欲望に沿うことなく逆らっていく。自由への一般的な切望はただの初歩段階だ。適切な手段を見つけ、それらを適用することが、つぎなる段階だ。探求者には、彼の真我を見いだすというたったひとつのゴールしか視野にない。すべての欲望のなかで、それはもっとも野心的なものだ。なぜなら、何も、そして誰もそれを満たすことはできないからだ。探求者と探求されるものはひとつだ。そして探求のみが重要なのだ。

質問者 探求は終焉するときが来ます。探求者は残るでしょう。

マハラジ  いいや。探求者は消え去るが、探求は続く。探求は究極であり、永遠の実在だ。

質問者 探求とは、欠けていること、欲していること、未完成、そして不完全を意味します。

マハラジ  いいや。それは不完全と未完成の拒絶と拒否を意味する。実在の探求自体が実在の動きなのだ。ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我の探求を意味している。この探求が終わることはけっしてない。それと同時に、それ以外のすべてへの落ち着きのない切望が終わらなければならないのだ。実在、神、あるいはグルの探求は、真我の探求と同じだということを理解しなければならない。ひとつが発見されると、すべては発見されるのだ。「私は在る」と「神は在る」があなたのマインドのなかで区別不可能となったとき、何かが起こる。そのとき疑いの余地なく、神が存在するのはあなたがあるからであり、あなたが存在するのは神があるからだと知るだろう。

質問者 すべてが運命によってすでに定まっているのなら、真我の実現もまた定まっているのでしょうか?あるいは、少なくともそれに関して私たちは自由なのでしょうか?

マハラジ  運命は名前と形にのみ関係する。あなたは身体でもマインドでもないのだから、運命があなたをコントロールすることはできない。あなたは完全に自由だ。コップは形、材質、利用法などに条件づけられている。だが、コップのなかの空間は解放されている。それはコップに関連して見られたときにだけ、コップのなかにあると見なされる。そうでなければ、それはただの空間だ。身体があるかぎり、あなたは肉体化されたかのように見える。身体がなくなっても、あなたは肉体から分離されたのではない。あなたはただ在る。運命さえもただの概念にすぎない。言葉はあらゆる方法で組み立てられる。表明は異なるだろうが、それらが現実において変化をもたらすだろうか?数多くの説がものごとを説明するために発明されてきた。それらすべてはもっともらしいものであり、どれも本物ではない。車を運転するとき、あなたは科学と力学の法則の支配下にある。車を降りたら、生理学と生化学の支配下にある。

質問者 瞑想とは何でしょうか?何がその効用なのでしょうか?

マハラジ  あなたが初心者であるかぎり、ある形式的な瞑想、あるいは祈りが向いているだろう。しかし、実在の探求者にはただひとつの瞑想があるだけだ。それは思考を潜ませることへの厳格な拒絶だ。思考から自由になること、それ自体が瞑想だ。

質問者 それはどのようになされるのでしょうか?

マハラジ  思考が起こるにまかせ、それらを見ることだ。その観察自体がマインドをゆっくりさせ、完全に止まらせる。ひとたび、マインドが静まったなら、それを静かに保ちなさい。平安に退屈になってはならない。そのなかに在りなさい。そのなかにより深く入っていきなさい。

質問者 ほかの思考を避けるため、ひとつの想いをもちつづけるということについて聞きました。しかしどのようにして、すべての思考を追い払いつづけるのでしょうか?その考え自体が思考なのです。

マハラジ  新しい実験をしてみなさい。過去の体験にしたがってはならない。あなたの思考を見なさい。そして思考を見ているあなた自身を見なさい。すべての思考から自由になった状態が突然起こるだろう。そしてその至福によって、それを認識するだろう。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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