何が起こるかわからない呪文”パルプンテ”
昔のドラクエには究極の呪文、唱えると何が起こるかわからないという博打的な呪文があったんです。
これが、スピリチュアルの道のメタファーに近いと思うんです。
何かを起こそうとする呪文は目的があります。でもパルプンテだけは、何が起こるかわからないことを「受けいれないと」唱えることができません。
先日書いたことなんですが、実はわたしたちにはスイッチなんかないのに、架空のスイッチを想定して、今ありのままのこの瞬間を見逃してしまいやすいんですよね。1秒先に何者かになりたがるから見逃してしまうことが多い。
受け入れることは宥すことです。
今この瞬間のそのままの姿を宥す。これはエックハルト・トールの魔法の処方箋と同じです。
お手上げ?ゆだね、サレンダー?
小難しい話ではなくて、30円をポケットに入れている人と30万円をポケットに入れている人がすれ違った場合をイメージしてみます。
持ち運んでいる金銭価値的には1万倍の差があるんですが、本当は財産に差がないんです。この二人が持っているのは実はひとつ(のもの)で、しかも同じ(もの)です。
それは肉体ではない。肉体が所有するものでもない。
それはpresentなんです。今この瞬間あるすべてのもの、です。
ちょっと待ってくれ。「私」は30円、「奴」は30万円持っている。「奴」は金持ちだ。
そのちょっと待った宣言(抵抗)が、思考であり、エゴ(自我)なんです。
「私」「奴」その分離観念が思考で、エゴです。
パルプンテが唱えられないのは、presentに気づきにくいのは、それが邪魔しているからなんです。
今ありのままのこの瞬間をpresentとして受け入れたときに
「初めて」パルプンテが発動します。
発動したって「何が起こるかわからない」なら「ダメ」じゃん!?
そのダメ出しの主体が隠れている犯人です。
その犯人を取り押さえようとせず、じと目で観察します(受け入れます)。そうすると自分はもしかして刑事だった?と気づきます。ここまでが比較的わかりやすいと思うんです。
その観察者すら超えなくてはならなくなります。対象と観察者がある場合は「ふたつ」です。真実は「ひとつ」なので、ここをなんとか超えないとみえません。どう超えるかはその人にしか通用しないので事前の予習が無理です。
この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
HN:
Fiora & nobody