いったい貴方たちは生前に何を拝んでいたのか?


今日の公園さんの記事のこの言葉は良かった。
フィオラはこう言っていた。
「美の基準が違います。死んだら誰もが外見上は労することなくハン・ヒョジュになれます。ですから彼岸で”見られる美”とは、地上のものとは異なることに気づくべきなのです。
その美を、錬成する過程とはどのようなもので、いつどこでだれにそのチャンスが与えられているのか、気づくべきなのです」Fiora
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天国に行く為に、今日迄の宗教で説かれた【地獄の沙汰も金次第】と金銭で自分の罪を償う【贖罪】とは?
2019.11.30 Saturday - 00:00 - by ○○公園
自己の魂を汚すことを何とも思っていない人は多数あります。例えば、東名高速道路で怒りに覚えて二人の方を高速道路上で止めて死なせた事柄を教訓ともせずに、またもや高速道路であおり運転をする人が出ましたが、こうした方の魂とは【捻れて】いて、閻魔大王様とて救う手立てが難しいとなります。 例えば、人は死ねば終わりだから悪をしなければ損をすると言って悪事に荷担している者でも、その魂が「捻れて」いなければ助ける余地があります。霊界の刑務所(下層地獄)に入って刑を勤めれば、また人として出して貰える余地があったのです。 日本の諺に【地獄の沙汰も金次第】があります。これは辞書を引くと【地獄の裁判も金の力で有利になる。この世はすべて金の力で左右される】例え、そうしたことが書かれている思います。しかし、辞書などの解説の意味では神意が理解出来ないと言えます。 地獄の沙汰も金次第で変るかと言うと、変わります こうしたことが辞書に書かれていますと、世の中には閻魔大王様も金で転ぶのだと勘違いされる方達も出ます。閻魔大王様も金の力で転ぶのかと言いますと、意味合いがまるで違うのです。そこに出て来るのは【贖罪】の意味なのです。仏教では、あまり【贖罪】の言葉が出て来ません。為に、「贖罪」の言葉の意味がまるで理解出来ていません。 一方、キリスト教等では頻繁に【贖罪】の言葉が出て来ます。贖罪とは、その人が犯した【罪の償い】として自己の金で罪を精算する意味です。キリスト教ではその人が犯した罪は、キリスト教会に寄進することでその罪を免れるとする意味です。 それ自体は日本でも、神社や寺院に多大な寄進をすれば自分が積んだ悪行(カルマ)も減じられるの考え方はあります。それは自分の【罪の意識】から、金銭を吐き出しているからです。自分が犯した罪を意識することそのものが重要なのです。 スピリチュアルでは自分が意識していない犯罪は【罪】ではないとしているのですが、それは【神の愛】ばかりを言って、自己の魂の【核】の働きを何一つ理解していないからなのです。 言うなれば、罪を金で支払うも【罪滅ぼし】の一環 この地獄沙汰も金次第はどこから出た格言なのかは解りませんが、日本昔話から言いますと、山寺の麓の長者様が亡くなった。しいては和尚様に葬儀をしていただきたいと長者の屋敷の者が言いに来た。 で、和尚は葬儀の了承をして、その長者が死後の世界でどこに行くかを霊視したところ、このままでは地獄界に落ちると見えて来た。 日本昔話の農村地帯の長者とは、多くの小作人を使用して米を作らせ、自分だけが大金持ちとなっていた。長者と小作人との間の貧富の差は多大だったのです。 そこで和尚は、このまま葬儀をすれば長者は地獄に落ちてしまうで、長者の財を葬儀の時までに農民たる小作人達に分け与え得るように手紙をしたためて、小坊主に持たせて長者の屋敷に走らせた。そこで、長者の遺族達は長者が地獄に落ちてはいけないとその財を小作人達に配った。和尚が葬儀を終えて霊視したところ、その長者は地獄に落ちずに済んだと言うのがその昔話の骨子だと覚えています。 私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【私の書は旧約聖書なれども、私の真の教えは日本民話や日本昔話に秘めた。そなたはそうした物語を読んで、私の教えを知りなさい。】と告げられたことから、日本民話や日本昔話を読み、そこに秘められた意味を学んできたと言えます。 地獄の沙汰も、貧しき者に自分の金を分かつで変わった それは閻魔大王様が、大金を出せば地獄行きの沙汰を変えるなどの話ではないのです。キリスト教で言われた【贖罪】の話なのです。 イエスの教えに、金持ちが天国の門をくぐるのは針の穴をラクダを通すようなものだがあります。イエスは金持ちの天国行きは不可能だと言ったのです。 だが、【贖罪】と言う金で罪滅ぼしをする手もあった 下記の図は以前に出したものですが、贖罪の【贖】の漢字は財(貝)で売り買いするなのです。【贖罪】は自分の罪を財で売買することです。 そして、そこに何が起きるかです。 大本教の出口王仁三郎聖師は、地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だと残しておられますが、どれだけ多くの宗教家が地獄界に落ちているかです。単に大本教が他の宗教と違って、創造神と呼ばれる神を説いたからではないのです。そこには【贖罪】の結果の意味が秘められていると言えます。 自分が犯した罪を【財】として、他の者に金銭を付けて渡したならばその罪分は消えて行きます。この意味を理解していないと、贖罪の言葉の意味が解らないが起きます。 自分の家の爺さんは放蕩者で、家の財産を全部食い尽くしたなどです。すると、一見するとその爺さんはどうしょうもない人だったとはなりますが、これはその家の御先祖様が多くの人を泣かせて大財産を築いた。すると、その家に放蕩者が出て、その財産を全て失った。その時、その放蕩者であった爺さんが悪かったのではなくて、その家系に多くの人を泣かせて築いた財に残されていた【カルマ】そのものを解消させたもあるのです。 その爺さんの放蕩でその家は貧乏にはなったが、それは霊的世界から言うと幸いなのです。【幸いなるかな貧乏人】なのです。イエスが説く【幸いなるかな貧乏人は】舌足らずの言葉の教えと言えます。 そこに来る言葉が、【子孫に美田を残すなかれ】 我が子可愛いで道を誤る人は数知れず 。特に母親は気づかない。 一部の霊能者の方達は説いておられるのですが、御先祖霊が本当の天国界に渡りますと、この世での子孫とは【縁切り】となります。先祖霊としてこの世の子孫に関わってはいけないからです。先祖守護霊として出て来られる段階の霊は、まだまだ本当の天国界には行っていない段階なのです。ですから、先祖霊は【副守護神】格と言われているわけです。 そうした先祖霊に対して、自分自身の魂のルーツの中で神上がりをしている存在が【正守護神】と呼ばれるのであって、人はその【正守護神】に帰結しなければならないのです。単なるあの世ではなくて、霊界での次元が違うのです。 東京の深川富岡八幡宮の宮司家の姉弟で宮司の地位と金銭を巡って姉を殺して弟が自殺するがありましたが、どちらの霊も浮かばれることはないでしょう。富岡八幡宮に鎮座している神霊が誰かは知りませんが、監督不届きの神霊とも言えます。神霊の座にあぐらをかいていたのかです。 大本教の出口王仁三郎聖師が、地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だと書き残しておられますが、【いったい貴方たちは生前に何を拝んでいたのか?。】なのです。 スピリチュアル標榜の女性霊感者の中には、首や指に宝石をきらびやかに飾り魔除けなどと称しておられますが、自分自身が【魔界】の中に在る理解がまるで出来ていませんよなのです。 この世では石には【魔除け】のパワーはありますが、この世の宝石はあの世には持って行けません。あの世に持って行くのは自分の磨かれた意思たる【魂】を持って行く以上、その魂が【宝玉】でなければならないのです。 人は誰しも困った時には、外在神の【霊力】に頼ろうとします。それに頼って今の時は助けられても、死後に天国界には進めないとなります。 では、自分が過去から積んで来た罪(カルマ)は誰に支払えば有効かと言いますと、【世の為、人の為】に吐き出すのが一番有効なのです。だが、その金の出し方が解らないとなります、宗教団体よりも【社会福祉組織】に出すなのです。宗教団体に出す時はその宗教団体が【慈善事業】をしていないと意味をなしません。その宗教団体が自分の宗教の拡大の為にそうした資金を使う。教祖や宗教家が贅沢をする為では、【贖罪】として出された金が贖罪とは成らないのです。 某宗教はその教祖様がイエスの再来で、信者達に教団に大金を出させて、その財は高価な骨董品等に使われていたがあります。無論、この教祖様はイエスの再来でも何でもありませんでした。要するに霊界のペテン師です。 この教団ではニセ霊能者を使って、相談者に霊障が起きていると高価な壺や絵画や印鑑を売りつけていました。俗に言う【霊感商法】です。しかし、その霊能者達は全てニセ者達でした。そんな教祖が「イエスの再来」などあり得ないことなのです。そんなことすら解らなかった者達は、俺々【詐欺】に引っ掛かったのと同じ事で、出した金はトブ捨て金に等しいとはなります。 しかしながら、自分の罪や先祖の罪を意識して財を吐き出したならば【贖罪】の理には適わってはいるのです。その宗教家は死後に地獄に落ちたでしょう。ただ、悪しき宗教家に欺されて吐き出した金と慈善として世の弱者に為に出された金とでは、贖罪の働きに大きな差異が生じます。 そうした詐欺の宗教とは、大本教の出口王仁三郎聖師が【天国に案内すると言いながら地獄に案内する取次者(金儲けの宗教家やスピリチュアル的存在)】と残しておられるのは、そうしたことなのです。 スピリチュアルでも最初は高い霊と交流していても、金儲けに入ると低い霊との交流になります。本人は気づいていないのですが、他から見ている霊能者には憑いている霊が代わった(変わった)ことが解ります。その霊能者は、やがて蛇霊憑きや野狐霊憑きと呼ばれるようになるのです。霊世界を自己の金儲けの手段にしてはいけないなのです。 私が以前は大評価していた某霊能者も有名になった途端、以前の霊界よりも落ちておられます。金儲けに入ったからです。御本人は以前と変わらずに霊が見えているから気づかれないのですが、自分の魂の格を落としているなのです。最初は霊界に対する功績は大でしたが、今は霊界の罪人と化しておられるです。 ですから、大金持ちが世の弱者に対して大金を出すのは有効なのです。 常に、【世の為、人の為】の原理原則がある では、何の財産も無い者はどうすればいいのかとなりますが、そこにお釈迦様の教えの中にある【貧者の一灯】があるのです。大金持ちの大金の寄進よりも、何の財も無い者の【一灯】の方に価値があるなのです。私は大金持ちの天国行きは僅かしか見られないと言います。しかし、貧しい人達の中に天国行きは多数見られます。 その貧者の一灯には金銭ではなくて、 世の為人の為に働く【ボランティア的活動】がある それは大災害が起きた時などに、そこに手弁当で駆けつける表だったボランティア活動があります。だがそうした人達は若者や体力や時間が取れる人達です。老いた人や体力が無い人や時間が取れない人や病人は駆けつけたくても駆けつけることが出来ないなどがあります。そうした時には代替えとして弱者に対する【金銭的援助】が役立つなのです。 また、そうした大災害時のみならず、日々地域のボランティアとか奉仕をされている方達。それは【世の為、人の為】にされているので、その魂に【悳(徳)】点が加味されて【天国界に向かう】となります。 神様神様、御利益下さいと拝んでいる人よりも、世の為に人の為に(他の救いたる世根活動)と働いた人の方が、死後に遙かに高い霊界の次元界に進まれる。 私が説いていることは【米】教と言いますが、【他(田)を救い(鋤くい)て世根(米)】と成れなのです。ですから私が説いている内容は【みろく(身禄)】の教えともなっているのです。 仮に自分が神で有るとするならば、自分に大金を差し出す者は天国に案内するは悪神の論理で、世の為に人の為にと働く者や犠牲を払った【誠】の者は天国に案内するは正神の論理であると言えるかどうかです。 どの神霊も【自分が悪神】とは言われないでしょう。しかし、神として自分がどちらの論理に立っているかなのです。 自治会の組長などをしていますと、何年に一度か組長が当番で来ます。以前は日赤の赤い羽根とか暮れの歳末助け合い運動に自治会から強制的に割当金がありました。通常コーヒー一杯程度の金銭です。ところが、強制的に自治会がするのはおかしいと言う声が出て任意になると、もうその程度のお金も出さないで激変してしまいました。 困っている人のことなど知ったことではないと言う。世知辛い世になったとは言えるでしょう。 人は何故に、この世と呼ばれる世界に生まれ出たのか? 何の意味も無く、目的も無く人類は誕生したのでは無い



特定の「漢字」を伝達することに意味がある。靴という漢字が意味する物品・モノを伝達したいわけではなく、受信者が漢字を分解して解釈すると送信者もわかっているから漢字で伝達してくるようになる。
欧米の受信者には漢字などもちろん使わない。
万葉集の時代からあった「くつ(沓・履)」に漢字の革を使うようになったのは明治以降。
毛物からの脱却というこの解釈が正しいかどうかは私にはわからないが、送信と受信の試みが正当なものであることは信じている。n300003






靴が無ければ下駄にするかで、絶対に逃げられない下駄を履くを考察
2014.06.15 Sunday - 15:08 - by ○○公園
最近、同じ様な夢を幾度も見ました。それらの夢とは、私がどこかに行って帰ろうとすると、必ず私の靴だけが無い。周囲をいくら探しても靴が見つからない。時にはそこにあったスリッパで帰るです。 誰かが間違って私の靴を履いて行ったのかと、人が居なくなるまで待っても私が履いていた靴のサイズが見当たりません。誰かが履き間違えたのであれば、同じサイズに近い靴が残っていなければなりません。それが無いとなると、盗まれたともなります。 止む得ず裸足で靴屋に行っても、私に合うサイズの靴は何故か在庫が無いとか売られてないのです。私の足のサイズは小さいので無い店もあります。で、運動靴ならば子供用でも履けるはずなのですが、それすら売られていない。後は下駄屋で草履か下駄しか履く物がないことになります。 そうした夢が幾度も出て来れば、さすがにこれはおかしい。何等かの暗示が私に出て来ていると理解するより方法がありません。 昔、私の夢によく井桁が出て来ましたが、当時は「井」の意味をいくら考えても柵で囲うとか枠組ぐらいしか意味が解りませんでした。何かを【囲う】です。その夢は何を囲うのかが解らずにそこで行き詰まっていました。だが、今回下駄で「囲う」が解りました。 靴の字は、革が化けるですが、弥勒神の「勒」は革の力で、弥勒とは「改革の力」が実行される意味合いがあります。 私が履いている靴が無くなるは、弥勒に改革の力が無くなったのかとも考えられますが、有る言葉が浮かびました。 それは「ゲタを履く」です。靴がこれほど盗まれるのであれば、代わりに「ゲタ」を履くより方法がないわけです。 仮に、もし神が人類に「ゲタ」を履かせると言われれば、おそらく99%の方は靴では無くて履き物の下駄を履くことだと思われるでしょう。普通、諺の「下駄を履く」は、終わって見ないと結果は出ない意味の諺です。 大本教と呼ぶ宗教が起きた時、出口開祖のお筆先に「道の真ん中を歩け」とありましたら、当時の大本教信者は道の真ん中を「そこのけ、そこのけおいらが通る」をやってしまい、出口開祖が嘆かれたと残されています。 神が「道の真ん中を歩けと言われているのだから、往来の道の真ん中を歩く。それのどこが間違っているのか!」。そうした反論が起きたからです。言葉とは如何様にも取れるようにはなっています。 道の真ん中を歩けと教えられて、往来の道の端を歩ける者がどれほどあるでしょうかなのです。残念ながら僅かでしょう。その人が本当に奇魂による理解力を持っているかはそこにあります。それで往来の道の端を歩いた方は、神の真意を深く理解出来ている方達なのです。 もし、そこに「道の真ん中」でなくて、「道理の真ん中」と書かれていれば、誰でも解ったかも知れません。 その道の真ん中を歩けよりも、さらに難しい意味が秘められるのは「ゲタを履く」なのです。囲碁をされる方ならば「下駄を履かせる」の意味は理解されているでしょう。だが、囲碁をしない人は解らない言葉でもあるのです。 囲碁は敵の石を包囲して、敵に二つ以上の目(二眼)が出来無ければその石は死にます。その戦いの途中において、相手の石を直接に取りに行くのではなくて、一路とか二路離して自分の石を置き、相手がどのように逃げようとしても自分の囲みが敗れない。相手にその中で生きる為の眼を創らせないです。 その打ち方を「下駄を履かせる」と言います。その結果、下駄を履かされた相手の石は「完全死」となります。自分の囲みの断点を切られて、その包囲陣が崩れる打ち方は「下駄を履かせた」とは言いません。 直接に相手の石に着いて打つと、自分の石が切られて包囲陣が崩れてしまう可能性が出て来ます。そこで敵の石とは少し離れて石を置くことで相手の石を絡め取るのです。 囲碁の場合、その包囲陣から逃げようとすればするほど相手の被害は大きくなります。為に「下駄を履かされた」と気づいた時には、その石は捨てて打つのです。逃げる道がどこにも無いのです。 無論、下駄を履かせて敵石を絡め取ったしても、他の場所で自軍の陣地が少なければ囲碁は負けます。もしもそれが大石であれば、囲まれた側はその時点で負けましたと投了したりするのです。 昔、井桁の夢を見ていた頃は囲むは解けても、「囲碁」の下駄を履くまでは行き着けなかったのです。 弥勒の世とか三千世界の大立替と呼ばれることは、創造神派の神々と反創造神派の神々の戦いでもあるのです。囲碁は黒と白の石の戦いです。別に白が正義で黒が邪神の意味でもなければ、どちらが正しいとか正しく無いではないのです。 国常立尊様は厳格に「法」を重んじる主神であった為に、そんな法に縛られる生き方は嫌だ!。自分達が自由好きにやれる主神が良いで主神の座の追い出しが図られたわけです。 ですから、みろくの世とは「法」が厳格に重んじられることになりますので、法を厳格に遵守する神々と、自由好き勝手な世界こそ理想だとする神々との戦いでもあるのです。その時には勝てば官軍。負ければ賊軍となりますので、声を荒げて正義派だ邪神派だと論じることでもないのです。国常立尊様も反対派から邪神とか悪神として追われてしまったからです。 国常立尊様は如何なる「法」を遵守されようとしたのか?。 私は「九つ花の真ん中」である「四十一」を説いて来ました。 日本国憲法第「四十一」条は、最高の立法府の規定です。すなわち「法」を定める最高の場所の規定です。 イエスは四十日間荒野を彷徨って、四十一日目に悪魔を退けて神の子となる。 モーゼは四十年間荒野を彷徨って、四十一年目にイスラエルは入る。 その「四十一」の定めたる規定、立法(律法)に従うのか従わないのかです。その黒白の戦いです。 人は一人一人が創造神で、神は誰に対しても強制しない等と子供じみたことを言っている人は「四十一」の法の意味を理解せず、創造神の「立法(規律)」その物に従わないと宣言している様な人達なのです。 私はその「四十一」は大本教神諭予告、「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」を誠で紐解く者が一人出るで、その一輪の言霊は「ラ」で、人に内在する【良心神】として解き明かして来ました。 その「良心神」とは、単に人が考える「良い心」のことではないのです。私達の魂の中に存在する創造神の分魂で、創造神が示された第四十一は全ての「立法・律法」を創る良心なのです。 良心神に基づかない法は、必ず綻びが生じます。人は多様で在り、そこには利害が生じます。それを利害関係の数の力で決めるであってはならないのです。良心神の働きにより生じる「義」によって、義の言葉で議論を行わなければならないのです。 以前のブログにも書きましたが、あるサイキッカーの方の御友人が天人界を訪れて、天人達が話している内容として最後の審判は、各自の良心神で判定されると聞いて来られそうですが、神とは何をしても「愛で許される」の愛の心の判定者ではないのです。悪魔を退ける良心神の判定なのです。 人は一人一人が創造神で、何をしても自分の自由だ!。自分に厳しい律法の押しつけをする神などは邪神だ!。悪魔だ!。そうした者達によって主は「鬼」として追われた意味合いが大本教が世に出した退くの神・艮(ウシトラ)金神として説かれたわけです。 大本教の出口王仁三郎聖師が、日本で言う「尊」とは日本語の「御言(みこと)」のことだと残しておられますが、日本の国に常に立つ御言が「国常立尊」の意味合いでもあったのです。 為に「九つ花」は、この日本で日本語をもってしか解けないし出せない教えでもあるのです。仏教において「みろく」が56億7千万になっているのも、お釈迦様やインド云々ではなくて、日本で日本語で紐解く為でもあるのです。 もう創造神の仕組みは、絶対に逃げられないように「下駄を履かせられた」の状態でしょう。 私は単に言葉による仕組みを解読している者にしか過ぎませんが、その言葉による仕組みを数千年前から作為されて来た神とは、神社仏閣に鎮まっている段階の神霊ではないのです。 私は別に神力を与えられておりませんから、奇跡を見せるとか病気治しも何も出来ませんが、私の前でどれほど豪語した霊能者も光の存在も、あまりにも自己の小ささを理解されておられないと言えます。何故ならば、それらの神霊ではこれほどの言葉による仕組みを完成させることが出来ないからです。 私は私の前で凄い光の存在を見たと言われる霊能者の方に対しては黙って聞いています。天の岩戸と呼ばれる光に接した立場からすると、そんな光では天の岩戸の光と比較対象にならないからです。龍神でも天狗でも蛇霊でも狐霊でも全て光の玉であり、個々の霊が出す光とは限界があるからです。 仮にある龍神が凄い光を放つとしても、そのエネルギーに永遠性はありません。それは瞬間の光を見させられただけであって、永遠のエネルギーである天の岩戸の光とは違って来るのです。 創造神に関して自分はこう思う。自分の意見を主張されるのは自由です。それに対して創造神は何も束縛されないでしょう。されど、言葉の仕組みを見て、これがそんな論理で言える仕組みでないと気づきが起きないとなれば、それは自己の自我が自分の奇魂の働きを邪魔していると思われます。 魂の和魂、幸魂ばかりを言って、奇魂、荒魂のことを忘れていると、魂は○型に成長して来ません。魂は歪みを生じて「不正」となります。すると、魂の【心棒】が出て来ません。魂に「心棒」が出て来なければ、魂の心棒たる良心神は理解出来なくなるのです。 一般的に「愛」さえ言っていればあの人は聖人だと思われているようですが、結果的にその方達は死後に地獄火の中に落ちて行かれる。そうした方達は四魂のバランスと天帝から分魂である直霊(良心神)のことを説いてあげても、絶対に理解されようとはされないからです。そこに自分は偉い者だの自我が見られます。 病気治しが出来るから自分は偉いではないのです。そうしたことの多くは龍神とか蛇霊と呼ばれる存在の働きであって、根元神にはつながる話ではないのです。大本教神諭、「この神は病気治しの神ではない。心の立替立直しの神で有る」で魂の存在たる親神さんのことなのです。心の立替は愛ではなくて、良心が真柱とならなければならないのです。 私は言葉の仕組みを紐解いている私が偉いのではなくて、言葉の仕組みから言葉を創られた神の存在を見なさい。知りなさい。それを理解する理解しないは貴方自身なのですよと言います。 アマチュアの囲碁の世界では、通常打つときは3目くらいの置き碁が限界で、それ以上になると打ちづらいが起きます。それ以上の置き碁をする下位の人に対しては、無理して自分が悪手を打ってしまうようになるからです。 囲碁は遙かに上位の人と打ちたい時は自力で強くならないといけません。負けてはどこが悪手だったのかと考える。悪手を打たないようにしないと強くなれないのです。そこに囲碁の学びがあります。 囲碁の場合は格段に差がある人と打つと、その方の石の置き方が解りません。何でそんなところに行くのかです。だが、3目程度置く上位の方の打つ手は解りますので、なるほどと勉強になります。 神霊世界も魂の格による段階が違うと同じ事が起きます。蛇霊や狐霊と呼ばれる下位の神々と交わっている時は、奇跡を見るのが楽しく、それなりの面白さがあります。だが、そうした世界に何時までも留まっていたのでは自分の魂は成長しないのです。自分より少し上の段階に学びが入っている方に教えて貰うのが成長の早道になります。



祓いの犬に隠された靴は、弥勒の「勒」の改革の力か?。戦いの迫りの靴音か?。
2018.01.19 Friday - 00:01 - by ○○公園
子犬の行動を見ていますと、脱いでおいた履き物を咥えてどこかに持って行くがあります。愛犬の【靴泥棒】と呼ばれる行為です。子犬にとってはそれは一種の遊びと言えます。 私はここ一~二年間ほどの間に、実に奇妙な夢を七~八度見ていました。それは夢の中で私が世の立替の講演をしている会場で、講演を終えて会場から帰ろうとすると私の「靴」だけが何故か無くなっている夢です。会場の他の人にはそうした被害が起きておらず、私一人だけが被害者なのです。 どこを探しても私の靴が見つからないのです。時には裸足で靴屋に駆け込んでも、何故か私が履くサイズの靴だけは無く、大弱りしている夢もありました。そんな夢が七~八度も出て来ますと、さすがに【靴】の言葉の意味が気になります。だが、意味がまったく解らないのです。 そして、犬の年を迎える昨年の師走に、またもや靴が消えている夢です。だが、今度は会場の靴箱を探したところ、これまで消えて行った過去の全ての「靴」が並んでいたのです。これまで失せた靴が全て戻って来ている?。です。 いったい誰が私の靴をこれまで隠して来たのだ!。その時、これまで私の「靴」を隠したのは「犬」の所行だと出たのです。犬?。犬が私の靴を隠していた?。 酉年の師走の後に来るのは「犬」の年です。犬に祓いの意味があるのは分かります、その「祓い」がどうして【靴】とつながるのかの意味が解らないなのです。だが、靴が戻って来た夢は、【靴】が揃う仕組みと考えられるわけです。 弥勒の「勒」を分解すれば改革の【革の力】で 弥勒とは「いよいよ始まる改革の力」と読めます 私は【弥勒世】の到来を告げる宣伝マンをして来ました。だが、それは何時かとなった時、言葉だけでは読み切れません。 革の字は、毛物の毛を治去して、これを【革変】するなりで【革命】をも意味します。政治の世界では保守の旧を改めるのが革新とします。しかし、政治の世界の革新はその多くが唯物主義者の集まりで、唯心主義者とは一線を画します。 明治維新は間違いなく【改革】でしたが、日本の民主党の革新政権は、実務が解らないお粗末な政権でした。危機管理が出来ない革新政権ならば必要は無いとなります。 今年の年明けに中国の軍艦が尖閣列島の接続水域に入り、何時、中国が尖閣列島に上陸作戦を敢行しても不思議ではなくなって来ています。中国の習主席は新年の軍事パレードで、軍に【戦争準備】を訓示しました。どの国に対しての訓示かは解りませんが、国家の指導者であれば、あらゆる不足の事態に備えるのは当たり前のことであり、日本の様な平和ボケでは国は守れないのです。 無論、戦争は厭だからその時は日本は中国の属国に成る。そうしたことを平気で言う人達は必ず出て来ます。そんな日本人が増えれば増えるほど、この日本は天から見放されるでしょう。 世界の人類が戦いの無い平和の世界に住むには、日本の戦国時代の世を織田信長が天下統一に導いたように、一つの神による神界統一が必要です。唯一の神だけを神と崇めるです。 今の神霊世界を見るならば、まるで群雄割拠の戦国時代のようなものなのです。為に、宗教が戦争を起こす元凶となっていると言っても過言ではありません。 同じ旧約聖書を聖典ともしながら争っているユダヤ教、キリスト教、イスラム教を見れば解るように、未だ本当の創造神は出ていないとも言えるのです。もしもそうした創造神が世の世の表に出ていれば、宗教間での戦争は起きないからです。 唯一神が告げる【革新】は、毛物(獣)の魂からの脱却です 今の世は、人の顔をしていてもその魂は【毛物(獣)】なりの状況で、新しき永遠の世に入る為には、魂の毛物の除去がなされなければなりません。だからこそ、【弥勒】の世は黙っていても来るのではなくて、大規模な【変革】を伴うなのです。 そうしたことから、世の立替は一種の神界革命(クーデタ)とも説かれるのです。 だが、ここまで私の夢に「靴」が出て来るとは別の意義があるかと、再度調べましたところ 革は獣の皮ですが、改に通じて「あらたまる(新たまる)」です。ですから【改革】でよかったのです。さらに、さし迫るとか病気が重くなる。危篤になるなどの意味もあるのです。そこに、改革がさし迫って来たと読めます。 そして「靴」の「化」は、【人が死す】形なのです。単に化けるではなくて、複数形の人達が死ぬ形です。化けるの意味合いは、人の肉体は死ねば消えても骨は残る。その骨と化した意味が「化け」るだったのです。違う形になることです。 人は死しても【魂】は残る。それが【化け】です 靴は、改革で人は死しても「魂」は残る そうしたことから、私達はこの世を去ってもこの世に残っている霊を【お化け】と言います。霊がいろんな姿(神霊をも装う)に化けるのもその意味合いです。 私は今回【犬】の字に関して調べていて、かなり見落としがあったことを知りました。犬の字が使われる常用漢字には、 伏、臭(臭)、突(突)、戻(戾)、状、就、献(獻)、黙、器(器)、類(類)、抜(拔)、髪(髮)等があります。 これらの犬の字は動物の犬その物の意ではなくて、祓いの【犮】から来ている犬性なのです。私達が気がつかなかったのは【器(四口と犬】が、神事や祭事に用いる道具のことなのです。 私達の肉体は【神の容器】ともなります。しかしそれは「一霊四魂」の四魂ではなく、直霊とされる部分が【神】と言えます。 私は世の大立替で審判されるのは各自の【良心神(直霊)】だと述べて来ました。それは魂に点数が出ることを見たからです。 私達の【心臓】は「田の字型」の四室となっています。 人の心臓は【田】の字型、心を持って【思う】の働き 何故、稲荷でなく【米】教の仕組みであったのか 心臓は【魂の型】であり、血は「霊」でもあります。聖書に「汝、他人の血を食べてはいけない」とありますが、他人の血の輸血を拒否することではないのです。これは【汝、他人の霊(チ)を食べてはいけない】なのです。 今の世の霊的世界においては、自分の魂の汚れを霊媒質者に勝手に送りつけるが行われています。すなわち他人の汚れていない霊(チ)を食べるです。これらは霊的に行われているので、大多数の人はその現実を知るではありません。 自分の霊(チ)の汚れを自分の肉体が祓わないで他人の霊(チ)を利用するです。何も知らず解らずに、他人の霊(チ)の汚れを受けて病を起こす。そうしたことが起きているのです。 自分には名だたる神々が出て来られるで、自分はとんでもない高い者だと思っている霊感者の方を見た他の霊感者が、あの方は美しい魂の持ち主だと言っておられましたが、実際はその方の魂の汚れは霊媒体質者に無断で転送されていたがありました。そのことを霊感を持つ肉体は気づいていなくても、その肉体の魂がしていたなのです。 それは、本当に磨かれた魂ではなく、他の霊媒質者に自己の魂の汚れを転送して見せかけの美しさを誇っていたのであれば、いずれ破綻する日が来ます。それを美しい魂だと賞賛していた人達の魂も、実に低い魂の持ち主達だったと言えます。 自己の魂が汚れていれば、自分と同格の汚れた存在の魂を見ても、その魂が汚れているとは見えないのです。汚き水の池の中に居て、自分の居る池の水は綺麗だと思っているなのです。高き山に登って見る光景と、低き山に登って見る光景は違うのです。 人の魂は脳に宿るのではなく、心臓に宿る その心臓の四室は、私達の血の汚れを集めて浄化(祓い)しています。そして、新鮮な血を送り出しているのですが、心臓が弱ると死につながって行きます。 ほとんどの方は神霊が神罰として人の命を取ることを知らないと思いますが、神霊が人の命を取る時には【心臓発作】などであの世に持って行きます。但し、むやみになされているのではありません。時には起きるなのです。 人の病の多くは【血の汚れ】から発祥しますが、これは【霊(チ)の汚れ】からも起きて来るなのです。悪しき想念が魂の霊(チ)を汚しますので、スピリチュアルでも【悪しき想念】を持つなと言う教えそのものは正しいのです。 人を嫉んだり恨んだり憎しんだりしている人が、【自分の魂は美しい】など、絶対に出せない言葉なのです。本人は霊(チ)の汚れを発しているからです。 一霊四魂の四魂を祓うと、直霊は汚れを持たない また、弥勒の勒には 勒=くつわ(勒)を並べる。戦闘前に軍馬を一斉に並べるがあります。 戦争の靴音が聞こえて来る等と言いますが、戦火の前に「靴」です。 私が子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声は、【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国で有り、この神の仕組みはそなた一人だけには解るようにする】でした。ただ、それは豊受姫から【貴方は言葉で教える者】と告げられたことから、言葉の仕組みだと解っただけです。 また、その旧約聖書の神と称する声は、【この神が演出監督する神の舞台の筋書きは、世に出ておられる神達は誰も筋書きをご存じない】と告げられましたが、大本教神諭も同様に、【世の立替があると云うことは、どの神柱にも判りていれど、モウ一厘の肝心の事は判りておらん知らない】とありますように、実は神々にも創造神の立替の筋書きは解らないがあるのです。 それは、神霊と呼ばれる方達が私の前に現れて、私に創造神の仕組みを教えるとか説くではなくて、私の魂が鍾馗神の案内で中国で天子とされる数万体数十万体の配下霊を従えた「盤古大神」に拝謁し、大本教の出口王仁三郎聖師の姿をした霊が私の前に【漢字】と描かれた浴衣で出て来られたことから、大本教霊界物語の盤古大神から国祖国常立尊様に神界の【大政奉還】の内容に触れて、神界の大政奉還ではなくて、日本語は【感じ】を学ぶのに【漢字を変換】する必要に気づいたわけです。 しかしながら、いくら辞書を見ていてもその言葉がどのように仕組まれているかは解りません。私の場合は見せられた霊的映像から言葉を読んでいるのです。 私は大本教霊界物語の記述の弥勒の神の紋章は【○に十字の定めなり】を、実は戦いの前に軍馬を一斉に並べる「勒(くつわ)」の意味があることに気づいていました。それは、大本教と同じウシトラ金神でも、【宇志採羅根真】の綾部藩主九鬼神道家に関わる古文書の絵に描かれた○十からです。その○十は勒(くつわ)?。 神界には創造神が存在すると思われますが、現実にはよく解っていません。特に私達が居る地の神界は大本教で説かれた【地の神界の主宰神・国常立尊】の追放劇が【地の神界の神々の多数の力】により生じたからと言えます。 そこに【勝てば官軍、負ければ賊軍】や【下克上】が起きたのです。私がそれを知るのは大本教霊界物語の記述からではなく、私の魂はその当時に存在していて国常立尊様に仕えていたからです。微かながらもその当時の記憶を私自身が持つからです。 弥勒世の前には、四魂(四器)の汚れの祓いが必要で 天帝に従えぬ神霊達は、天帝の軍馬に蹂躙される 私は現在地に豊受姫の命令で、この神業は【世に出ている神々には出来ぬ。このご用が勤まるのはそなた一人】と言われて現在地に住みましたが、その土地は大本教出口王仁三郎聖師が大正九年以前に大本教信徒の一部に、「教団に内密でその土地を死守せよ」と告げられた土地の一角であることが解りました。 また、出口王仁三郎聖師がその直弟子の一部に、【みろく神業に使われるお宝が埋められている】と告げられた土地の側でもあるのです。 私が所有する土地そのものではありませんが、やはり出口王仁三郎聖師に命じられた方の土地に関して「豊受姫」は、私に【米】型の屋根の霊的建物を見せてくださり、【米】型が単に大本教神諭予告【九つ花】を紐解くだけではなくて、もっと重要な意味があることを教えて頂いたしだいなのです。 世に自分には【豊受姫】が出て来ると言われる方は多々あるでしょうが、大本教では綾部の聖地である本宮山(鶴山)に豊受姫が降臨されたと述べていますが、私も豊受姫からそのように伺っています。その豊受姫が【米】型の意味を知らないとなれば、それは本物の豊受姫様かとなります。だからこその【稲荷大神】でもあるからです。 伏見稲荷大社は全国の稲荷の総本社ですが、私は【伏】の字に首を捻っていました。犬が伏して人に従うは俗説で、人に従い。犬に従うなのです。この伏は【厄災を防ぐ】の意味合いと言えます。祓いにつながっているのです。 明治維新は薩長連合軍が【鳥羽伏見】の戦いで雌雄を決めました。大本教神諭予告【九つ花】は十里(鳥)の八根(羽)型であり、そこに【犬性(祓い)】によって魂から獣を除去するとも言えます。 大本教霊界物語に、白狐は下郎の役として参加するとありますが、 鳥羽(十里・八根)伏見で戦う皇の官軍に、白狐は下郎の役として参加する 私が伏見稲荷大社講社に所属している時、支部を併発していた稲荷神社の御祭神である豊受姫が支部の月次祭(つきなみさい)の時、【神鏡】を持ち出されていました。その神鏡とは考古学で言う神鏡とはまったく別の物で、鏡から白光を放ち講員さんに獣霊が取り憑いていないかを見る【獣鏡】と言えました。その人の【心境】を見る鏡です。 私が言葉遊びをしていると思っているような人は、神は【言葉で示し申す】が、まったく理解出来ない存在となります。私は霊界の様を見て、言葉の意味を理解して解説しているのです。 霊的世界には存在していても、現実界では造ることが出来ないのが【神鏡】なのです。ただ、私も神霊からそうした物を見せられなかったならば、私も【言葉】が持つ意味を紐解けなかったとは言えるのです。





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