虚空からみた瞑想のこと(常にある)


星の話の前に、今夜は瞑想のことです。虚空の創造力の側面について集中するのは、優先順位は後になります。



なぜかというと、最強の創造物・皇(愛)の掟に抵触し、足元にロープを張られ(正確に言うと不足しているというみえない動機に基づいて世界を見た自分の責任なんですが)、すってんころりんだからです。星の軌道も、運命も、皇に逆らおうとするとすべて裏目に出ます。自我には虚空の創造力を扱う資格はありません。自我は従者です。


先に、虚空が何を可能とするのかで重要なことは、瞑想とは何か?だと思うんです。


瞑想とは、特定の肉体のフォームで行うものではなく、24時間継続していることを思い出すことにより、虚空の真意を思い出していくものです。ただ、最初にこの目標を置くと、完全に挫折しますので、この話はかなり瞑想に熟練している方とか、心の家が見つかっている方だけが対象です。
(心の家が見つかるまでは、誰?一本でいくことを私は推奨します)



座禅ではなく、すべての動きが瞑想であること、それどころか、70億人の全員の人生を虚空が一歩も動くことなく、可能性として、シャドーのように実現させている感覚に一致することです。


一歩も動いていないのに、あらゆる動きをしている感覚。


それは特定の動きではなく、あくまで静止ですが、ただの静止ではなく、躍動に満ちた静止なんです。


言葉では矛盾するように聞こえますが、わたしたち全員が瞬間(いま)それをやっています。その感覚が自我によって覆い隠されていて、常識と違いすぎるからまったくイメージもできません。求道者の瞑想は知らず知らずその固定観念の足枷を受けています。


おもしろい提示があります。



あなたは猫です。今、ネズミの穴の前で、ネズミを今か今かと待ちかまえています。
じーっと息を潜め、わずかな気配の動きも見逃さないように、深遠に向かいあっています。
あなたは何を待っているのでしょうか?
ネズミ?それとも、猫らしさを体験することでしょうか?
いま、ネズミを忘れてください。猫らしさを体験しようと待ってください。
そこで訪れる感覚をよく味わってください。


手軽に感覚を掴むのに、かなり有効だと思います。
集中しているが、リラックスしている感覚。
張り詰めているが、穏やかでいる感覚。
日本刀で描写すると、固さを追求すると折れやすくなり、柔らかさを追求すると曲がってしまうんです。相反する二つの性質を包含し、極限まで高めていったものが日本刀です。



一見相反するものを包含している絶対静止の感覚。


瞑想は虚空がやっています。
求道者がやっているのは、極論すると瞑想の真似事にすぎません。


今、何か行動していることは、同時に瞑想であり、虚空は何者にも邪魔されない以上、動き自体に邪魔されません。邪魔されるだろうというヒトの固定観念があるだけです。こんな状況にはないだろう。向こうの方がより神聖な儀式だろう、という固定観念です。


(虚空からテレビを見ている覚醒=体験のみ)に、求道者の瞑想は及びません。



動いているのに、静寂そのもの。
ただ在るの本質、もっともっと深いところに、動きのなかの静寂があります。


こんなことを書いている私は、まだ全然その感覚に慣れていませんが、
求道者にとって瞑想は核になるために、優先して書きました。


フィオラの提示していた内隔音叉(体内を海に見立てる反響瞑想)もまったくまだ理解できません。内隔(虚空への抵抗具合、固定観念の核)を発見するために有効とは聞いているのですが、手がまわってないです。


それからこの日記の書き方のことなんですが、やっぱり動画が重いのか、画面の動作が鈍くなるので、なるべく普通のテキストで書いてみようと思います。文面強調も、正直かえって読みにくいような気もしています。
音楽と霊性が関わるという持論のために、今まで全ての日に楽曲を張りつけようと思っていたんですが、どうしてもそうしたい日にそうすることにしますね。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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Fiora & nobody