もっとも信頼できること


とはなんでしょうか?
それは今既に起こりつつあることだと思うんです。


過去でも未来でもなくて、今既に起こりつつあることこそ信頼に足ります。
直接的すぎて、誰がどうやっても否定できないからです。
これに気づいたのはこの日記を書き始めてからでした。


ではその今既に起こりつつあることを私たちは掴んでいるでしょうか?
いいえ、掴めません。掴める対象ではないからです。常に、未知だからです。
感じることしかできません。


既にかたちを成したものは信頼に足りず、予測も無意味。
今既に起こりつつあることを認識する「何者かがいる」ことこそ、ヒトにとって最重要の事実です。空気よりも確かに、存在を支えているからです。


それは肉体とその感覚器官によるデータにすぎない、というのは単なる固定観念であり、本人によって検証されていません。その状態では思い込みと言われても仕方ありません。科学は未だに、無と「生きている無」の違いに気づかないままです。


ヒトにとって一番の死角はこの根本です。
これを見ようとせずに、その他のことを確かに知ることができるでしょうか。


誰?という質問がヒトが抱えうる疑問の中で最も価値があるのは、最も信頼できることの基盤を問うものだからです。


その質問の根本に至り、わたしは結局誰なのかに行き着き、それが人に伝える価値があると判定されたからこそ「指差し」は発生しました。


正確な描写は不可能ながら、存在していることは指せる。だから一定の価値があるんです。
ですが、人を「連れて行く」力はありません。


あくまでも、看板に過ぎません。本人が、すべて決めることです。


つねに、どんな状況でも、もっとも信頼できることはひとつだけです。


「今既に起こりつつある」です。


思い出す前は、今既に起こりつつあることに「気づいているわたしがいる」ですが、思い出して正体を確かめると、それがよりシンプルになります。


「体験」そのものが「ひとつ」の正体、生きている無の織りなす演劇であると気づきます。


この自分に、ありのままのみんなに、今日をありがとう。
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